※著者の所属機関名は掲載当時の情報です。ご注意ください。
- 研究小誌KOTONOHAについて(吉池孝一・愛知県立大学,第61号)
- 北海道釧路から(鈴木慶夏・釧路公立大学,第60号)
- プリンストン大学中国語授業参観記(西香織・北九州市立大学,第59号)
- “小姐”の扱いは慎重に?(史[丹彡]嵐・龍谷大学,第58号)
- ホスト意識(今井俊彦・立教大学・非,第57号)
- 新HSKについて(鈴木清美・愛知大学孔子学院・非,第56号)
- 高校生の中国語スピーチ(小林和代・天理大学・非,第55号, 2010-12)
- 万博で見たもの(岡本俊裕・京都外国語大学,第54号,2010-11)
- 米国大学主催の中国語スピーチ大会に参加して(朱鵬・天理大学,第53号,2010-10)
- 高校中国語の小風景(須田美知子・東大阪市立日新高等学校,第52号,2010-09)
- 贈り物(喜多山幸子・大東文化大学,第51号,2010-08)
- IACL-18 & NACCL-22 Joint Conferenceに参加して(遠藤雅裕・中央大学,第50号,2010-07)
- 版本調査の話(小方伴子・首都大学東京,第49号,2010-06)
- “明白”,“dong3”,“dong3得”と“弄dong3”(原由起子・姫路獨協大学,第48号,2010-05)
- “米”と“面”の意味(続三義・東洋大学,第47号,2010-04)
- 口伝の威力(石崎博志・琉球大学,第46号,2010-03)
- レシテーション大会と弁論大会(竹越孝・愛知県立大学,第45号,2010-02)
- 辞書のゆくえ(安部悟・愛知大学,第44号,2010-01)
- 第59回全国大会を終えて(松江崇・北海道大学,第43号,2009-12)
- 一石で二鳥も三鳥も(照井はるみ・札幌市立大学,第42号,2009-11)
- “鳳凰男”と“孔雀女”の話(洪潔清・千葉大学,第41号,2009-10)
- 「第六届歐州漢語語言學學會學術研討會」に参加して(吉川雅之・東京大学,第40号,2009-09)
- 中国鉄道大紀行(竹越美奈子・東邦学園大学,第39号,2009-08)
- 注文の多い料理店――ある体育会系シェフの奮闘(塚本信也・東北学院大学,第38号,2009-07)
- 「宝貝」のような電話のはなし(中田妙葉・東洋大学,第37号,2009-06)
- 既習者クラスのこと(安藤好恵・大東文化大学,第36号,2009-05)
- 新潟県立大学の開学にあたって(後藤岩奈・新潟県立大学,第35号,2009-04)
- ヨンさまと「奥特曼」(下地早智子・神戸市外国語大学,第34号,2009-03)
- 五感の語感(藤田益子・新潟大学,第33号,2009-02)
- 国際粤語学会に参加して(飯田真紀・北海道大学,第32号,2009-01)
- 父 望月八十吉の想い出(望月圭子・東京外国語大学,第31号,2008-12)
- 第58回全国大会を終えて(岡本俊裕・京都外国語大学,第30号,2008-11)
- 中国語はどんなことばなのか?(町田茂・山梨大学,第29号,2008-10)
- “写不出来”“念不出来”なことば(豊嶋裕子・東海大学,第28号,2008-09)
- 忘れられた「唐音唱詩」の伝統(加藤徹・明治大学,第27号,2008-08)
- 「閑人」の正体(加藤晴子・明海大学,第26号,2008-07)
- 会話練習(丸尾誠・名古屋大学,第25号,2008-06)
- 母校(中川裕三・天理大学,第24号,2008-05)
- 中国語に訳し分けにくいことば(三宅登之・東京外国語大学,第23号,2008-04)
- 客家の三合院(田中智子・神戸夙川学院大学,第22号,2008-03)
- 「閨房」から「大通り」へ(清原文代・大阪府立大学,第21号,2008-02)
- 全国大会を終えて(伊藤さとみ・琉球大学,第20号,2008-01)
- ベトナムでの中国語(三木夏華・鹿児島大学,第19号,2007-12)
- 中国を遠く離れて(千葉謙悟・早稲田大学,第18号,2007-11)
- 海外学会参加記(多田恵・桜美林大学(非),第17号,2007-10)
- 類型論研究と中国語の語順(石村広・成城大学,第16号,2007-09)
- 富者の学問(宮下尚子・久留米大学(非),第15号,2007-08)
- 学会の愉しみ(石崎博志・琉球大学,第14号,2007-07)
- 「ごみ箱」から思うこと(大西博子・近畿大学,第13号,2007-06)
- 論争のはなし(松江崇・北海道大学,第12号,2007-05)
- 発音の季節(小野秀樹・首都大学東京,第11号,2007-04)
- 関東支部拡大例会を終えて(佐々木勲人・筑波大学,第10号,2007-03)
- “一点”の“一”の声調(三宅登之・東京外国語大学,第9号,2007-02)
- "我叫阿拉ka(上下)瓦,己悠希代"という時代はくるか(荒川清秀・愛知大学,第8号,2007-01)
- 全国大会を終えて(竹越孝・愛知県立大学,第7号,2007-12)
- 初めてのポスター発表(竹越美奈子・東邦学園大学,第6号,2006-11)
- 先生の「OK!」—インフォマントは気を遣うという話—(植屋高史・群馬県立女子大学(非),第5号,2006-10)
- 見るものと見られるもの(遠藤雅裕・中央大学,第4号,2006-09)
- 中国の音を採る(中西千香・愛知大学(院),第3号,2006-08)
- 多言語意識 (山崎直樹・大阪外国語大学,第2号,2006-07)
- 多言語世界(遠藤雅裕・中央大学,第1号,2006-06)
研究小誌KOTONOHAについて
『KOTONOHA』という月刊の研究小誌をウェブ版と紙版で発刊し続け、この8月末で105号となる。発行母体の古代文字資料館についてはかつて日本中国学会便り(2008年第2号)で紹介させていただいた。今回小誌の紹介を書くことになった。いろいろと考えた末、4月に100号を記念して発刊した記念論集(『KOTONOHA百号記念論集』非売品)の序文とあとがきを転載することとした。それは決して手を抜いたわけではなく小誌の好個の紹介文ともなっているからである。序文は中村氏、あとがきは吉池が担当した。なお、竹越 孝氏の手になるKOTONOHAの総目録(1号から100号まで)が記念論集 (ウェブサイトでも閲覧可能。サイトは「古代文字資料館」で検索)にある。あわせて参照願えれば幸いである。
■序文■
2002年11月に産声を上げた『KOTONOHA』も、ついに100号の区切りを迎えた。この8年余りの間、毎月コツコツと続けてきた結果である。8年の歳月は決して短くはない。創刊当時愛知県立大学の学部生だった数名の方々は、それぞれ早稲田大学、名古屋大学、金沢大学の各大学院で研鑽を積み、新進の研究者として今回の百号記念論集に原稿を寄せてくれた。確かに8年余の時間が経過したのだと実感する。
2002年10月に「KOTONOHA」という誌名が決まった経緯については、「『KOTONOHA』発刊5周年に寄せて」と題して本誌60号(2007年11月)に記したことがある。ほんの偶然から決まったとも言えるこの誌名が、今では執筆者にも読者にも違和感なく馴染んだものになってきたのは、やはり8年間休まずに刊行し続けたからだろう。
一種のアマチュアリズムを保持したまま100号を迎えることができる『KOTONOHA』は幸せな雑誌である。テーマの大小を問わず、真面目な論文や資料紹介から、気の張らないエッセーや学部生の初めての文章など、雑多な内容のものを全て同じ土俵に上げて提供する、これが『KOTONOHA』のやり方である。そのような同人誌的な雑誌は通常あまり長続きしない。それが100号まで続いたのは、なにより発起人である吉池孝一氏の情熱の賜物であり、さらには本誌のスタイルと内容を気に入って、温かい励ましの言葉をかけて下さった多くの方々のおかげでもある。
学問の世界において、長年の定説を覆すような新説を発表したり、それまで知られていなかった貴重な資料を発掘公表することは確かに大きな栄誉に違いない。しかし、あまり注目を浴びることのないような小さなテーマなり、ささやかな発見であっても、それを論じる仲間がいて、発表する場があれば、その研究には大きな充実感が得られる。『KOTONOHA』が常にそのような小さなテーマを歓迎する雑誌であり続けてきたことは、この雑誌に関わってきた者として誇りとする所である。『KOTONOHA』は研究成果を発表するだけの雑誌ではなく、むしろ学問と思索の楽しさを伝える媒体なのだ。
『KOTONOHA』の文章は毎月ウェブサイト「古代文字資料館」の中にアップされており、したがって読者の大多数はインターネット上でその内容を読んでいる筈である。しかし、『KOTONOHA』の“本体”は、輪転機で B5版の紙に印刷したものをホッチキスで留めただけの、発行部数30部のちっぽけな冊子である。ネットで公開している以上、そんな紙の媒体は不要ではないかといぶかる向きもあろうが、このちっぽけな冊子こそが我々の喜びなのである。月末が迫るたびに原稿の締め切りに追われ、時には寝不足になることもあるが、出来上がった冊子を手にした時の感触は、まさに学問の楽しさと一体である。そのような同人誌的な側面は紙の媒体にして初めて味わうことができる。
今回は第100号を記念して、いつもの冊子ではなく、正式な書籍として刊行することにした。こんなにも多くの方々に原稿を寄せて頂いたのは全く予想外のことで、うれしい驚きであった。とりわけ、長田夏樹氏の最初期の文章を載せることができたのはこの上ない光栄であり、本書の価値を高めるものと信じる。
読者として、あるいは執筆者として『KOTONOHA』を応援して下さった全ての方に心よりの感謝を捧げたい。
■あとがき■
長田夏樹先生の初期論文を発見しお寄せくださった長田家の皆様をはじめ、多くの方々のご厚意に支えられ、本書を発行することができました。感謝もうしあげます。
KOTONOHAは100号を越え、150号という次の山を目ざして、一歩を踏みだしたところでございます。こんごともご批正くださいますようお願いします。
なお、次の書籍がKOTONOHA単刊として発行されている。No.1『清代満洲語文法書三種』(編訳者:竹越 孝、2007年)。No.2『中古音のはなし―概説と論考』(著者:中村雅之、2007年)。No.3『語学漫歩選』(編:古代文字資料館、2008年)。No.4『有坂秀世研究―人と学問―』(著者:慶谷壽信、第1刷2009年9月。第2刷2010年12月)。No.5『KOTONOHA百号記念論集』(編:古代文字資料館、2011年)。いずれも非売品。入手方法などについてはサイト古代文字資料館を参照願いたい。
北海道釧路から
今回は、北海道釧路の状況をとりとめなくお伝えします。学期末のお忙しい中みなさまの気分転換になれば幸いです。
道東は、土地面積あたりの医療過疎率日本一です。毎日のようにドクターヘリ(空の救急車)が道東各地から釧路に飛んでおり、私の研究室は上空がヘリの航路になっているようです。中国語教員の過疎率も日本一のはずで、日勝峠より東側には私以外の中国語専任教員はいません。
2005年4月、釧路公立大学に外国語選択必修としての中国語が開設され、この地に赴任したのですが、最初に驚いたのは、一人の学生が市内の書店で1992年出版の中日辞典を買ってきたことです。その一冊が売れたことで、別の学生たちは誰も辞書を入手できませんでした。私の初仕事は、市内の書店に中日辞典をおいてもらうよう交渉したことでした(学生たちはネットで購入しました)。
次に驚いたのは、主述述語文の学習後、“釧路夏天暖和”という作文を大量に目にしたことです。文法は教えたとおりですが、違和感を覚えました。「夏は暑いと決まっているのだから、“釧路夏天不熱”と否定文にするか、“釧路夏天涼快”と言ったほうがいいでしょう」とコメントしましたが、クラスの約半数を占める道内出身学生たちはキョトンとしています。道外から来た学生たちは、「なんで“夏天”に“暖和”?」と笑っています。
考えてみれば、意味論的前提も語用論的前提も、話者の生活実感と無関係ではありませんから、「長い冬が終わってやっと夏」という地に暮らしていれば、「寒い」の反義語に相当するのは「あたたかい」なのです。みなさんは、「毎日毎日暑くて、もうイヤ!」と思うから、「涼しい」という語を発したいでしょう?心より暑中お見舞い申し上げます。ちなみに、本日は最高気温が18℃、すがすがしい一日でした。
今年6月24日(この日の最高気温は13℃、寒かったです)、釧路日中友好協会が設立されました。産官学連携という主旨で、釧路各産業界の実務家、現市長・前市長等も役員として参画しました。人口密度が低い地域では、文化交流だけで協会を存続させるのは難しいのです。地元の経済人と協力することが、地域の中国語教育を少しでも充実させることにつながるのではと感じています。
道東は美しく魅力的な景勝地です。中国語圏からの旅行者も年々増加しています。ぜひ日本国内のみなさんも、冷涼な気候と目を見張る自然にふれてみてください。
プリンストン大学中国語授業参観記
私は昨年9月、ニューヨークのコロンビア大学で開催されたTCCRISLSのワークショップと学会に出席したが、せっかくなのでこの機会にアメリカの大学の中国語の授業を参観してみたいと思った。以前、2005年にも勤務校(当時)の英語語学研修の引率のため、ハワイ大学のカピオラニコミュニティカレッジを訪れ中国語の授業を参観したことがあったが、当時は「まあこんなものか」というのが正直な感想であった。
今回、ニューヨーク市立大学に勤務する知人に打診したところ、「アメリカに来たのだから、ぜひプリンストン大学の中国語の授業を見るべきだ」と言われ、その知人の紹介でプリンストン大学の周質平教授の授業を中心に一日、特別に参観できることになった。たまたま同じ学会に出席予定だった鈴木慶夏学姉にも同道いただいたが、二人とも目の前で繰り広げられる授業に、驚きとため息の連続であった。
まずは専任講師による中級クラスの授業を参観。受講者は10数人、この日は“不得已”、“免不了”、“任何”、“養成〜的習慣”等の文型の導入が中心であったが、ピンインなしの例文を学生達はすらすらと読んでいく。例文の内容そのものについて“我不同意”と中国語で意見する学生までいる。
次の授業は周質平教授の初級クラスで受講者は8人。9月に入学したばかりの学生達で、始まって3回目の授業だとおっしゃっていたように記憶している。学生達はそれぞれプリンストン大学が独自に作成している驚くほど分厚い初級テキストを持ち、中国語による授業についていこうと必死である。ちなみに、この初級テキスト『First Step 中文起歩』は最後にお土産として頂いたが、レターサイズ(A4に近いサイズ)で500ページ近くもある。
休み時間をはさんで周教授の中国思想史(上級)のクラスへ。この日は小説『祝福』に見られる魯迅の思想についての中国語によるディベートであった。受講者は30人ほど。教員は司会進行役に徹し、学生主導で進められていく。時差ぼけも吹っ飛ぶほどの衝撃を受ける。ただ、これには少し裏があり、授業はディベートが本番であって、学生達は授業とは別の日に関連の文献や映画(DVD)にあたり、それらに対する知識を深め、さらに中国語アシスタントの下でディベートの練習を積むのだという。
最後に、更に驚く事実を知らされることになる。この学生たちは皆、中国語専攻ではなく、経済、法律、工学等、さまざまな学部の学生だと言うのだ。さすが名門校は違う。
アメリカ史が専門の同僚に「アメリカの大学では第二外国語で中国語を履修して、卒業までに『山』という漢字が書けたら万々歳って聞いたわよ」と言われたことがあるがとんでもない。「山」という漢字など目を瞑っていても書けるが、何年も中国語を習っていても、簡単な挨拶以外は話せない日本人学習者がどれだけいることか。今更ではあるが、日本の大学の中国語(外国語)教育のあり方を本気で見つめ直さねば、と強く思った刺激的な授業参観の一日であった。
“小姐”の扱いは慎重に?
毎年春節の夜中央電視台の番組を見ているが、中国語の語彙の絶え間ない変化に感慨を覚える。2011年春節夜のあるコントを見て、私は大きなショックを受けた。次はその台詞の一部だ。“大姐”“小姐”“大妹子”などの呼称が問題となる箇所なので、その部分だけ日本語に訳さず括弧を付けてある。
中年の男:大姐!(“大姐”!)
若い女性:叫誰大姐?(誰が“大姐”ですって?)我有那麼老ma?(私はそんなに老けてるかしら?)
……
中年の男:小姐!(“小姐”!)
若い女性:罵人是不是?(バカにしてるの?)a?(どうなの?)誰是小姐了?(“小姐”ですって?)誰是小姐了?(“小姐”ですって?)
中年の男:我什麼時候罵ni3了?(俺がいつあんたをバカにした?)大妹子!(“大妹子”!)
大妹子行ba?(“大妹子”ならいいだろ?)
若い女性は中年の男に“小姐”と呼ばれたことに、何が不満だったのだろうか?参考書や授業でもかなり早い段階で、尊称としての“先生”と“小姐”という呼称を教える。《現代漢語詞典》でも次のように説明している。
(1) 昔金持ちの家で召使が主人の娘のことをこう呼んだ。
(2) 若い女性に対する尊称。
どういうことかと疑問に思いながら、ネットでちょっと調べてみると、いくつかの文章が目に留まった。次はその抜粋である。
これまでずっと“小姐”は社交辞令でよく使われる言葉で、未婚の若い女性に対してある種の尊敬の気持ちを表す呼び方だと思っていた。ところがあるとき不運な目に遭ってから、もう若い女性を“小姐”と呼ぶ勇気はなくなってしまった。
それは出張先での出来事である。食事をしようと、わりと豪華なレストランを選んで入った。注文してから料理が出てくるまではすべて順調だった。ウエイトレスは全身から若々しさがプンプンする女の子だったので、「“小姐”、ちょっと酢を持って来て!」と声を掛けた。その途端、ちょっとマズイ雰囲気が流れ、「酢が欲しいんだったら、お前の母ちゃんとこに行きな!お前の母ちゃんこそ“小姐”よ!」と、彼女は怒ってしまったのだ。[1]
「“小姐”、お部屋はどちらですか?」と声を掛けただけなのに、ホテルのガードマンはその女性客に胸ぐらをつかまれ、おまけに足で蹴っ飛ばされた。当事者の胡さんによると、そのとき玄関ホールには大勢女性客がいたが、自分だけガードマンに尋問されたので、恥ずかしくてたまらなくなったのだそうだ。彼女は言う。「着てるものがちょっとセクシーだったので、私のことをヤバイ職業の女だと思い込んだのよ。見た目で人を判断するなんてないわよね」また、そのガードマンの口ぶりや表情は軽薄だったとも。[2]
次の記事を読むと、上掲の文章がまんざら作り話でも誇張でもないことがわかるだろう。
中新ネット10月8日配信、ドイツのoulineonlineの報道によると、10月6日の大14回ドイツ漢学大会で“小姐”という言葉が漢学者を困らせたという。北京語言大学学長の崔希亮教授は同大会で気まずそうに次のように述べた。「北京の街角で見知らぬ女性に道を尋ねるなら、絶対に“小姐”と呼んではいけません。そんな呼び方をしたら逆に罵られてしまいます」、「もし深[土川]なら、見知らぬ若い女性には“小妹”しかだめで、絶対に“小姐”と呼んではいけません。以前は客がウエイトレスのことを“小姐”と呼ぶのはごく普通でしたが、今ではタブーになっています。大衆の場では気軽に“小姐”と呼んではいけませんが、5つ星のホテルは例外です」[3]
周知のように、言葉の意味というのは社会が発展するにつれ絶え間なく変化するもので、“小姐”も例外ではない。元々は、相手のことを“小姐”と呼ぶのが、若い女性に対する礼儀であった。しかし今では、“小姐”には「水商売をしている女性の代名詞」という別の意味が含まれているように思う。このような現象につては更なる検証が必要であるが、仮に事実だとすると、サービス業を営む場所、とりわけホテル、レストラン、理髪店などでは、“小姐”という言葉は慎重に用いなければならない。そこでは見知らぬ女性をどう呼ぶかが問題となっているのである。
[1]http://bbs.zggs.gov.cn/viewthread.php?tid=49556
[2]http://www.northnews.cn/2009/0928/101996.shtml
[3]http://news.sohu.com/20061008/n245674360.shtml
*以上日本語訳(中川裕三)
ホスト意識
最近,テレビなどで中国人観光客のことが取り上げられているのをよく目にする。秋葉原の電気店で炊飯器を5個も10個もまとめ買いしたり,銀座の高級ブランドショップで何十万円もの買い物をしている様子が映し出され,日本に来る中国人は皆大金持ちであるかのような印象を抱く。取材に答えて消費金額を明らかにするような人は本当に富裕層なのかも知れないが,現在は,年収6万元程度の中間所得層にも訪日ビザが発給されている。日本円に換算すると必ずしも高所得とは言えないこれらの人々が,一生の記念にと全財産を握りしめ,さらには親戚や友人から頼まれた分も背負ってやってきている,というのも十分に考えられることである。せっかく来てくれたのだから,買い物以外にもよい思い出をつくってもらいたい。そのためには,直接観光に関与している訳ではない我々も,「迎える側」であるという意識を持つ必要があるのかも知れない。
中国人の日本旅行は,現在のところツアーが主流であるようだが,それでも街頭や店内,電車の中などで,中国人を見かける機会が多くなった実感はある。訪日個人旅行も解禁されており,日常生活の中で中国人を見かける機会は今後さらに増えることだろう。これは,学んだ中国語を使える場が増えるということでもある。
初級の授業では,勉強したばかりのフレーズが中国人留学生に通じたことをうれしそうに報告してくれる学生が毎年現れる。そういう学生は総じて成績も良く,積極的に使ってみることや,「通じる」という成功体験が,外国語学習の動機付けとして効果的であることは間違いない。そこで,日本に観光に来た中国人旅行者との会話を想定した教科書を作ったら面白いのではないかと思っている。
現在出版されている初級教材の本文は,日本人が中国を訪れるという設定で書かれたものが主流である。しかし,中国語専攻でない学生にとって,「わざわざ」中国に行くのは心理的にもハードルが高いようで,大半の学生は一度も中国へ訪れることのないまま卒業していく。これでは,せっかく学んだ教科書の有用なフレーズも,使う機会を得られない。その一方で,中国人の訪日旅行者が増え,日常的に中国人を見かけることが多くなれば,中国語実践のチャンスはむしろ日本にあると言える。従来の「道を尋ねる」式からの転換を計り,「道を教える」といった視点から,日常生活の中で出会うかも知れない,見知らぬ中国人旅行者に,ホスト意識を持って接することを主眼とした教材があれば,より実用性の高い中国語を教えることができる。
新年度,漠然と「これからは中国語だ」といった思いで授業に出てくる多くの学生に,中国語が役に立ったという経験をしてもらうことができれば,その後の学習意欲の向上にもつながるのではないかと思う次第である。
新HSKについて
数年にわたり,学生や社会人を対象にしたHSK対策講座を担当してきた。学生の目的は,就職活動や今後のキャリアに役立てたいというものが主である。社会人は,試験勉強を通して実力アップを図ることを目的にした人や自分のレベルを知りたいという人など様々である。
旧HSKは三種類(高等・初中等・基礎)あり,そのうちの一種類を受ければ点数によって級が与えられるというものであったが,新HSKは各級(1級から6級)に分かれている。中国語検定と同様,5級を目指すならば5級を受験し,得点によってその合否が決まるというシステムになっている。
旧HSKで多くの中国語学習者(実際に私が担当していたクラスでも同様)が目標としてきた6級〜8級は,新HSKでは5級となった。私自身,学生時代に何度もHSKを受験したが,6級と8級ではかなりのレベルの差があり,実際に6級→7級→8級と,一段一段上ってやっと8級に到達した。また,担当するHSK対策講座では,6級からなかなかステップアップできなかった受講生が,2年半のあいだ必死に勉強して8級に到達したという例もある。それが新HSKでひとくくりにされるのは,いささか残念ではある。目標を7級,8級に設定していた学習者からは,もう受験しないという声もちらほら耳にする。また,HSKという資格が中国語に関係ある企業でやっと浸透し始めたということを考えると,新しく設定されたシステムが認知されるのには,また時間がかかりそうである。
しかしシステムが変わった今,前のほうが良かったと未練がましく言ってみても仕方がない。プラスに考えれば,旧HSKでは6級の実力で8級に遠く及ばなかった人にとっては,新HSKでは同じレベルとして扱われるので,少しお得感がある。また,旧HSKではリスニングが規定の点数に到達せず,目標の級に届かないという学習者が多かったが,新HSKでは各パートの最低点が定められておらず総得点で合否が決まるので,リスニングが苦手でもほかのパートで挽回することができる。そのほかに特筆すべき点は,新HSKでは旧HSK基礎レベルよりも難易度が低い級が新設されたということである。これにより今までHSKは難しすぎると考えていた初級レベルの学習者も,受験しやすくなったと言える。1級と2級の問題には全てにピンインがふってあるので,特に非漢字文化圏の中国語学習者にとっては,以前よりはるかに挑戦しやすい。よって,世界中のより多くの学習者がHSKを受験するようになるであろう。また新HSKでは,4級と5級,5級と6級のように隣り合う級を併願できるよう受験時間が配慮されているので,その点からも受験者が増えることが予想される。
一方,試験内容で大きく変わったのは,文法問題がなくなり,記述問題(単語並べ替え問題,作文など)が設けられたことである(3級から6級)。旧HSK初中等の文法問題では,副詞を文中の適切な位置に入れる問題や接続詞や量詞を選択する問題が存在した。新HSKではそれが文法問題という形ではなくなったが,記述問題には今まで以上に文法の実力が必要とされると言えるだろう。5級では,与えられた単語をすべて使って作文する問題が出題されるが,その際,単語の意味が分かっていても使い方を知らなければ誤文につながってしまう。実際に受講生の作文を添削したところ,与えられた“志願者”という単語を「ボランティア(活動)」と理解し,「ボランティアに参加する」という文を作ろうとしたほとんどの学生が,“参加志願者”とした。こうした間違いを防ぐためには,語の用法をしっかり把握するということに尽きるだろう。初級から中級レベルの学習者の多くは辞書を引く際に,どうしても意味を調べることだけにとどまりがちである。そういった勉強の仕方ではこの作文問題には太刀打ちできない。その点を今まで以上に教える側が強調し,導いてゆく必要がある。
就職活動で中国語の能力をアピールしたいと考えている学生は多い。新HSKの場合,大学や専門学校で中国語を専門とする学生が履歴書の資格欄に「使える資格」として堂々と記入するには5級が一つの目標となるであろう。旧HSKの3級から5級が新HSK4級に該当することを考えると,最低でも4級は持っておきたい。
また,筆記試験とは別に,口頭での中国語レベルを測りたい学習者に対して,新たに口頭試験が設けられた。高等(筆記5・6級に対応)・中級(筆記3・4級に対応)・初級(筆記1・2級に対応)の三等級である。旧HSKにも高等レベルにのみ口頭問題があったが,それは筆記と同一の試験であり,このように筆記と別に設けられたものではなかった。筆記には自信がなくても話せるという人は,是非こちらも受験してみてはどうだろうか。
こうして作文問題や口語の試験が新たに設けられ,リニューアルされた新HSKを見ると,以前よりさらに中国語の応用力,総合力を問われるものとなっている。学習者には,自分の目標に応じて計画的に学習してから受験することを勧めたい。
なお,新HSKの詳細や学習方法についてのアドバイスについては,HSKホームページや各種参考書に譲る。
高校生の中国語スピーチ
平成22年11月13日(土),高等学校中国語教育研究会関西支部主催の第15回近畿地区高等学校中国語弁論大会が関西大学千里山キャンパスで行われた。この大会は関西地域で開催される高校生の中国語スピーチコンテストの類の中では最も古い大会である。今回この大会で審査員として高校生の中国語の発表を聴く機会に恵まれた。
本大会では司会は参加者とおなじく高校生が担当していた。大会の参加資格から,日常生活で中国語が身近にある生徒は参加できない。しかし,教室には当然そういう生徒もいる。そこで,そのような生徒に司会を担当してもらうことにしたそうだ。いい企画である。参加者にとって他校の生徒の発表を聴くこともいい刺激になるが,自分と同じ高校生がスラスラと流暢な中国語で次々とスピーカーを紹介している姿もまたとてもいい刺激となったのではないだろうか。本大会でスピーチの発表とは別に中国語で歌を披露してくれた生徒がいた。とてもいい歌声で会場を魅了していた。彼は日本の高校で中国語を履修しているフィリピン人生徒であった。大会参加者の中には通信制高校に在籍するお年をめされた方もおいでであった。孫ほどの生徒たちの中でその雄姿を見せておられた。教室には,様々な国籍,様々なバックグランドの生徒たちがいる。彼らがこのような大会で日ごろの学習の成果を発表し,互いに交流できるのは非常にいい機会である。生徒たちにこのような機会を提供するために企画運営なさる先生方も,生徒を指導なさる先生方も,真摯に取り組む生徒たちも,皆,大変なバイタリティーが必要だ。感に堪えない。
入門暗唱の部の課題文は3種類,《磨杵成針》《白雲和烏雲》《真的没有了!》で,250文字程度。初級暗唱の部は《阿倍仲麻呂》《落花生》《井底之蛙》で,350文字程度。いずれも暗唱するには結構なボリュームである。入門の部はエントリー21名,参加資格は中国語履修1年目3単位まで。その中国語の発表は初々しくも,とても4月から学習を始めたばかりの生徒とは思えないほど立派な出来であった。初級の部はエントリー14名,中国語の履修単位数の多少は問われないので,参加者の学習歴は1年目2単位であったり,3年目計6単位であったりと様々であるが,李白の《哭晁卿衡》や阿倍仲麻呂の「天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山にいでし月かも」の和歌を中国語の五言絶句で朗々と吟じる姿は堂々としていてそれは見事なものであった。
弁論の部はエントリー5名。中国語の履修単位数の多少は問われないので,参加者の学習歴は1年目2単位,2年目4単位,2年目6単位と,様々である。この部門だけはスピーチの後に質疑応答がある。審査員の中国語による質問にたじろぐことなく,見事に応答していたのには驚くばかりである。弁論内容は豊富であった。中国で“討價還價”したときの経験と感想,ニュージーランドへ語学研修に行った時の経験と感想,将来の夢,など。スピーチの内容はそれぞれユニークで興味深いものであった。“混血児”と言われると,日本語ではないにしても少々ドキッとする。中国語ではこの語に偏見の語感は含まれないという。しかし,日本語では「ハーフ」「ダブル」「クォーター」「国際児」「mixed」等等,そもそも特別な呼称を付けること自体に批判も出るので,どう表現したものか…。ところが,高校生らしいみずみずしい感性と新鮮な感動でもってこのことを「誇らしいことだ。」と謳い上げていた。日常,ココロにオリが溜まっているせいか,こういうまっすぐな意見に清々しさを感じた。
今回,審査員と合わせてプロンプターも仰せつかった。コンテストにプロンプトとはいかがなものかと思われるかもしれないが,高校生の大会である。緊張して実力を発揮できないこともある。それでも制限時間一杯最後までやり通すことを学ばせたいという指導なさる先生方のお心遣いを察することができる。
高校生たちの発表や質疑応答の受け答えから,先生方の熱心な指導がうかがわれ,それに応えて努力する生徒たちのひたむきな姿勢が感じられた。
高校生が学習の成果を発表する場では優劣を競わないものもあるが,この大会はコンテスト式であり,参加資格,制限時間,審査内容と点数が決められており,成績によって各賞の受賞が決まる。本番でいいパフォーマンスができ喜ぶ生徒もいれば,失敗して落ち込む生徒もいる。彼らにとってこの大会に参加し競い合うことは高め合うことであり,大会までの準備期間こそが学びであると感じた。大会当日演台の前に立てたところでかなりの部分,達成できたと言えるのではないだろうか。
万博で見たもの
暑い中,上海の万博に行った。忙しい授業のすき間をくぐり抜けての強行軍だった。
万博というと,大阪万博のことが思い出される。当時小学生だった私は,40年の時を経た今でも,千里の丘のにぎわいが忘れられない。そう,ちょうど私は猪歳生まれの“20世紀少年”。だから,万博には特別な感情がある。大阪万博に未来社会の到来を予感した私は,上海万博にも何かがあるという期待を携え,ここに来た。そして会場に直接通じる地下鉄13号線の階段を,そそくさと上がった。
目の前に広がる空間は,もはや上海の街中ではなかった。人は多い。でも,ひとつひとつの建物が醸し出す雰囲気は,まぎれもなく万博会場のものだった。左には大きな建物のシンガポール館。その入り口には長い列,場内放送では待ち時間は1時間半。私は最初の目的をあきらめた。
会場の中心部に向けてゆっくりと歩く。その内,遠くにあった中国国家館が,視界の中でゆっくりと成長し,異様な高さと大きさで目の前に立ち上がった。
“ああ,大きすぎる。”これが第一の印象だ。他のパビリオンと比して,あまりに巨大な中国国家館は,北斎の赤富士を逆さまにして東京の街中に持ち込んだような,そんな威容で,周囲の人間に,文字通りの圧倒的な“圧力”を振りまいている。
“これは一体?”と,圧力に抗しながら,私はつぶやいた。館の出口からは,少し疲れたような表情の人の列が続く。何十人何百人という人間が途切れることなく出てくる。この中には何人の人がいるんだろうか,というつまらないことを思いながら,館を中心に会場をぐるっと一周した。そこで発見したのだが,今回の万博では,会場のどこにいても,さっきの大きな中国国家館が見えるようになっている。そして,その圧力が,無言の内に,会場の隅々にまでゆきわたり,全体をその赤い色に染め上げているのだろうか。大気が重い。
雨が降ってきた。だんだん強くなる。私は歩き疲れて,会場の中を大きく横切る黄浦江の川べりに立った。ここでも国家館は,遠くにあるが,圧力を弱めてはいない。川と逆さ富士のような,赤い骨組みの浮き出た建物。雨音に視野をぼんやりとさせた私は,何かの声にもう一度首を上げ,遠くを見た。その時,見えた,この万博のすべてが。あっ“漢”だ。川の水のサンズイと,国家館の形を写す旁とで,漢字“漢”。“漢”が巨大な姿で,圧倒的な力で,会場を覆う。
そうか,これが上海万博だったのか。中国の立ち上げた,巨大な“漢”のモニュメント。他の国々のパビリオンを圧倒し,無数の人々を孕んで,“漢”は,私の中で新たなゲシュタルトを結んだ。
もう他の物は目に入らない。暑い。水を飲んだ。が,急に息苦しくなった。漢の一文字に集約された万博の意思に,私は疲れた。ここを離れないといけない。漢に押しつぶされる。急に怖くなり,疲れた足で,地下鉄の入り口を下りた。明るい構内だが,私の視野は暗いままだった。私は,見てはいけないものを見たのだろうか。
この万博に込められた中国の意図は,たぶん,大阪万博の幽霊に憑かれた私に,新たな思い出を与えてくれるだろう。でも,思い出は,甘美なものばかりではない。背負ったヤケドのような過去は,今と未来とを,ただれた姿に変えることもある。美しい未来の生活と新たな街とを求めてはいても,不条理な怒声に,心を痛める人間もいる。人生とは,隠れた意味と権力に恐れおののく時間の積み重ね。巨大な力を眼前に,私たちはなすすべを持たない。……万博の夢を見ていたのだろうか。漢字の力がここを支配しているようだ。
中国は,海に向かう地で,漢たるを宣す。これが万博で見たものである。
米国大学主催の中国語スピーチ大会に参加して
この夏,北京で行われた米国大学主催の中国語スピーチ大会に参加して,彼らの中国語能力の高さを直に感じるチャンスを得た。この大会は,「2010年京津地区美国暑期項目中文演講」と称して,短期語学研修で北京と天津に滞在している学生を対象に,研修期間終了時に行われた合同スピーチコンテストである。平素,日本人学生に中国語の発音や表現を四苦八苦しながら教えている私は,米国大学から来た学生の中国語表現の力強さとスピーチの内容の充実ぶりに,ただただ驚くばかりであった。
この大会は,「普北班」(プリンストン大学),「哈佛北京書院」(ハーバード大学),「哥大班」(コロンビア大学)の引率教授が,北京の協定校の協力を得て,5年前に発足したものである。以後,毎年夏に北京で行われており,出場者はイェ―ルやコーネルといった,いわゆるアイビー・リーグ(Ivy League)校をはじめ,ウィスコンシン,ノースウエスタン大学などからも優秀な学生たちが多く集まる。会場は毎年変わるようで,今年は主催校のコロンビア大学と姉妹関係にある中央民族大学で開催された。
今回の出場者は合計84名であった。その中には,在米の華人子弟が21名含まれていたが,彼らだけで一つのグループにまとめられていた。大会は,朝9時から正午12時までの予定で行われた。開会式の会場には出場者を含めた200人以上の観衆が詰めかけ,座席だけでなく,階段や両サイドの立見席まで人で溢れていた。最初のうちは,84名もいるのに予定通りに終われるのだろうかと些か心配だった。しかし,6グループが別会場で同時進行する形で行われ,また1人につき5分間という制限時間が設けられていたため,どのグループもスムーズに進行し,11時には全体の講評に入ることができた。
私が引率していた学生の中から2名が出場を許可され,2年生第2グループに入れていただいた。このグループのスピーチのタイトルは,次の通りである。(1)「北京印象記」(2)「在北京的拍照経歴」(3)「最可愛的人」(4)「三人行必有我師焉」(5)「返璞帰真――吃素的魅力」(6)「感受中国」(7)「[女乃]酪及其他」(8)「在美国或者別的西方国家的亜洲学生」(9)「声調和生活」(10)「老胡同、老故事」(11)「大話三国」(12)「臉書」(13)「和而不同的世界」
これらのスピーチは,学生たちが中国の社会,文化,歴史,言語を学んで自分なりにまとめた中国論か体験談である。たとえば,北京の人々との写真撮影の体験を記した(2),自分にとって恋人的存在であるチーズの魅力と北京での生活を綴った(7)は,構成面で随所に工夫が施されているだけでなく,中国とアメリカの習慣の違いから日常生活の面白さを教えてくれるといった興味深い内容のスピーチであった。
一方,このような生活談とは対照を成すような論理的なスピーチもあった。たとえば(4)は,孔子『論語』「述而」の「三人行必有我師焉,擇其善者而従之,其不善者而改之」を取り上げ,ユダヤ人もこれと似たような考え方をもっていることをヒントに,世界の言語から他人の善処を学ぶという視点から,学ぶことの楽しさについて力説した。中国文化を熱心に学び,且つより広い視野からその真髄を探求しようとする姿勢に,私は強い感銘を受けた。タイトルのみからの推測ではあるが,84名のスピーチの内,このような論理的な弁術を展開したと思われるものが全体の約三分の二を占めていた。
また,欧米諸国に留学しているアジア人留学生の問題を取り上げた(8),中国語の声調と中国人の生活について語った(9),三国志演義に対する自分なりの解釈を展開した(11)は,彼らの好奇心の強さ,独特の視点,教養の高さを存分に示していた。別グループの「小西瓜、大中国」「学中文和結婚的相似之処」「琴弦上的中国」「太極不是西瓜」などは,タイトルからだけでも,新鮮で奇抜な発想を味わうことができた。
私の記憶では,米国大学の学生が夏季研修という形で大挙して北京に滞在するようになったのは,1990年代初めのことである。プリンストン大学東アジア学部(Department of East Asian Studies)の周質平(Chih-p'ing Chou)教授が北京師範大学に「普北班」を設けたのは,当時としては画期的なできごとであった。「普北班」だけでも毎年百数十名の学生が北京で2〜3ヶ月の間濃密な中国語教育を受けており,修了生の数はすでに千数百名に上っているという。
周質平氏は,近現代中国思想史,明末の思想と文学の専門家としてその名が知られ,Yuan Hung-tao and the kung-an School(Cambridge University Press, 1988) や『胡適與魯迅』(台北,時報,1988)など,明末の文人袁宏道,近代の胡適に関して10数冊の英文,中文の業績をつくっておられる。1980年代末頃から中国語教育に携わり,以後,『胡適読本』『中級現代漢語読本』『人民日報筆下的美国』『中国知識分子的自省』など15種類の中国語の教科書を精力的に編集,プリンストン大学などから出版されている。
これらの教科書に基づいた周氏の中国語教授法は,きちんとした発音とセンテンスの教育が基本となっていて,学生に大量の練習を課すところに大きな特徴がある。「普北班」では現地で採用した中国語教師にまずこの教授法を習得させることになっていて,学生や教員から高い評価を得ているという。また,周氏のこの教授法或いは学習法は「周質平模式」とも呼ばれ,全米の中国語教育にも大きな影響を与えているとのことだ。
今回のスピーチ大会に参加し,私は久しぶりに好奇心を刺激された。ほとんどが自然科学系の学生で,中国語を専攻しているわけではないにもかかわらず,彼らの中国語スピーチのレベルは予想以上に高かった。そういえば,昨年の「普北班」の懇親会である学生が突然評書の「楊家将」を披露し,単田芳の口ぶりをそっくり真似たのに舌を巻いた記憶があるが,彼らの未知のものに対する好奇心と,それを必死で学ぼうとする真摯な態度には感服せざるを得ない。
この報告を書くに当たり,日本の中国語教育界に何か言いたいことがあるかと周氏にメールで尋ねたところ,「米日の中国語教師はほとんど交流がないのが残念だ!!」という返事が来た。最後にそれを,皆さんにお伝えしておこう。(2010年10月12日)
高校中国語の小風景
私は商業科・英語科・普通科総合選択制併設の東大阪市立日新高等学校で国語の常勤講師として勤務している。本校は2005年度から中国語を開設し,私は当初から担当して今年6年目となる。文部科学省が2年ごとに実施している「高等学校等における国際交流等の状況」に関する調査によれば,中国語教育を実施する高等学校の数は,1986年度は46校だったが,2009年度には831校と,開設校数では全体の16%になっている。しかし履修者数は2009年度現在19,751人,高校生1000人あたり5.9人とまだ少ない。
履修単位数の多い学校では3年間に20単位以上も取得でき,特色ある教育としてアピールしている。また第二外国語としてアジアの言語を必修で取らせる学校もある。しかし多くの場合中国語は選択科目の間口を広げる役割として存在している。現に本校では3年生の選択科目で,茶道,囲碁・将棋と並ぶ位置づけにあり,履修生徒のほとんどはまさか定期試験が課されるとは思っていない。毎年最初の授業で生徒の「えーっ」という声を聞くことになる。そんなモティベーションが高くない生徒に,50分・週2回の2単位という少ない学習時間で,どうしたら興味を持ってもらえるか,どれだけの内容が教えられるのか工夫が要るところである。
また本校の選択科目の中には,前述の科目以外にもちろん英語関連のものもあり,大学進学を希望する者はよほどの理由がない限り英語を選択することになっている。したがって中国語のクラスは原則として専門学校進学か就職希望者ばかりで,彼らが今後また中国語を勉強することはおそらくないだろう。そこであらゆる機会を捉えて,生徒に中国を自分の目で見たり,中国でひと言でも中国語を話したり,中国文化を体験してもらえたらと考え,積極的に高校生の中国派遣事業への応募,中国語スピーチコンテストなどへの出場を促す取り組みをしている。
そのなかで,桜美林大学孔子学院主催の全日本青少年中国語カラオケ大会への参加は今年3回目となった。幸いなことに,テープ審査,国内最終予選を経て,中国で行われる決勝大会出場者に毎年選ばれている。今年は残念ながら家庭の事情で辞退し,上海には行けなかったが,生徒は中国語カラオケという初めての体験を楽しみ,少し広がった世界を感じたようである。その大会では青少年とは35歳以下という規定で,中心となる大学生のほか社会人の方々も参加され,高校生はまだまだ少数派である。
参加の呼びかけに応えた生徒に手持ちのCDやDVDを貸し,何曲か選ばせた中で私が指導できるものに決定する。なにしろ自分は中国語カラオケといえばテレサ・テンという世代で,最近の字余りの曲にはついていけないが,生徒たちはそのおかげで中国も音楽は同じだと感じられるようで,助かっている。またJポップをカバーした曲も多くあり,親しみやすく,メロディだけでも覚える苦労が少ないという理由でそんな曲を選ぶ生徒もいる。女子生徒には台湾のアンジェラ・チャンが圧倒的に人気があり,どうしても歌いたいと言うのでアップテンポの「パンドラ」という曲に取り組んだこともあった。生徒は発音にはあまりこだわらないためか,無理矢理詰め込んだような歌詞も案外すぐに覚えてしまう。中国語カラオケ大会で歌われている曲を見てみると,「ラップ」がはやっているようだ。中国語はまさに「韻を踏む」のが得意な言語で納得がいくが,あの舌をかみそうなラップを教えてと言われたらどうしよう,と時代遅れのオバサン教師は今からおびえている。
本校の中国語クラスではもちろん歌ばかり歌っているわけではなく,なかなか実行はできないが『高等学校の中国語と韓国朝鮮語:学習のめやす(試行版)』(財団法人国際文化フォーラム)の提案を取り入れた授業を目指し,日々試行錯誤している。学習のめやすでは,語彙や表現を学習することが授業の最終目標ではなく,学習言語を使って実際にコミュニケーションできるようになることを目標としており,今完成版が待たれている。基本となる新しい外国語教育の考え方や活用法を共有するため,夏には教師研修が開かれる。今年は大学の先生方も参加され,中国語教育は高等学校から変えるという意気込みを,高校教員と共に感じ取ってくださったのではないだろうか。
今年も秋のスピーチコンテストの時期がやってきた。いくつかある大会のどれを選ぶかと問えば,うちの生徒は間違いなく高額賞金の出る大会を選ぶ。そんな選び方は如何なものかと感じるが,きっかけは何であれ,真剣に練習に取り組んでいる時間は本物である。どうか今年もいい経験をしてほしいと願っている。できれば去年のように,カラオケ大会がきっかけとなり希望進路を変更,スピーチコンテストで花開き,中国帰国生以外に初めて大学の中国語専門のコースに進学したT君のような生徒が現れることを夢見ている。
贈り物
だいぶ前だが,中国語の入門テキストを作っていて,課文の会話の録音に立ち会ったときのこと。発音をしてくださっていた2人の中国人のうち,Wさんが途中で,「このせりふは中国人なら絶対言わない」と言う。あらかじめ信頼できるインフォーマントのチエックも行っているのに,そう言われて困ってしまったが,話し合ううちに,少なくとも彼の世代以上の中国人は言わないが(Wさんは当時アラフォーだったと思う),今の若い世代なら言うかもしれないと譲歩され,録音を続けることになった。くだんのせりふとは,プレゼントを受け取った中国人の若い女性が,「ありがとう。開けて見ていいですか」というもの。Wさんは,中国人は贈り物をもらってすぐに喜んだりその場で開けたりはしない,欲しそうだと思われるようなそぶりは彼の世代ではしないと断言される。そう言えばどこかでそのような内容が書かれた文を読んだことがある。しかしいざ課文を作る段になると,限られた行数に必要な文法項目を盛り込むことばかり考え,中国人の習慣から逸脱した会話を創作してしまう。それをいましめる体験となった。
これはずっと昔,留学生だった頃のことだが,中国人におみやげを受け取ってもらうのにとても苦労した覚えがある。やはり中年の方で,日本のおみやげを差し出すと,いきなり「自分で食べなさい」「ほかの人にあげなさい」などのことばが返ってきた。こんなことを言われるとは思いもかけなかったので,とっさにどう返してよいかわからず,しどろもどろに「自分のはあるから…」などと言ってやっとのことで受け取ってもらった。後になって思えば,自分は少しも欲しがってはいないという気持ちを伝える,物を贈られたときの中国式の常套的な遠慮の表現だとわかるが,そのときはことばを額面通りに受け取り,せっかく日本から持ってきたのにどうして自分で食べろとか別の人にあげろとか言うのだろうと,あまり良い気持ちがしなかった。
こんなとき効力を発揮するのが,例の「わざわざあなたのために」というひとことではないか。日本の感覚では押しつけがましいようだが,あのとき中国人に倣って「わざわざ日本からあなたのために持って来たのです」「あなたにあげたくてわざわざ買って来ました」と言っていれば,もっと素直に受け取ってもらえたように思う。物を贈ったり,受け取ったりする場面でのやりとりで,遠慮して受け取りを拒否される前に,それを制して相手が受け取らざるを得なくなるように仕向け,受け取りやすくする。そんなことばなのだろうとこの体験を通して感じた。
その留学生時代,大学主催の夏休みの旅行に参加し,鉄道とバスを乗り継いでウルムチまで行った。途中トルファンで名産の緑色の干し葡萄をビニール袋にいっぱい買い,北京に戻って新学期が始まった頃,お世話になっている先生に旅行のおみやげとして少しさしあげた。その冬,先生のお宅にお招きいただき,手作りのお料理をごちそうになったが,その中に八宝飯があった。それにはナツメなどと一緒に緑色の干し葡萄が使われており,それは以前私が先生にさしあげたものだった。先生のおっしゃるには,北京ではなかなか手に入らない質の良い干し葡萄で,八宝飯に入れて食べさせようとその分を取っておいてくださったという。ほんのり甘いもち米の八宝飯を食べながら,トルファンみやげを喜んでくださったお気持ちが伝わってきて,とてもうれしかったのを覚えている。
IACL-18 & NACCL-22 Joint Conferenceに参加して
國際中國語言學學會(IACL)の第18回大会(IACL-18 & NACCL-22)が,去る5月20日から22日の3日間,ボストン近郊のハーバード大学で,北美漢語語言學會議(NACCL)との共催でおこなわれた。わたしは,この学会に報告者として参加したが,普段は味わえないような,いろいろな刺激を受けることができた。
わたしの興味は,個々の報告ももちろんではあるが,その使用言語にもあった。学会では作業語として中国語か英語が使われる。その割合をプログラムの発表題目から割り出してみると,約200の報告の内,中国語は半分に満たない70程度である。つまり,中国語使用率は3分の1強で,残りは英語ということになる。
アメリカでは英語が一般的な使用言語であるから,このような比率になったと考えるのが妥当かもしれない。しかし,一方では,中国語学を議論する際にも,すでに英語が共通言語になりつつあることを表わしているともいえよう。昨年のパリ,あるいは,2003年に愛知県立大学で開催されたIACLの大会でも,英語が優勢であるとの印象を持ったので,後者の可能性が高いだろう。このような状況を英語帝国主義とみなすことも可能だが,実用面から考えれば,英語使用は,より多くの受信者を得られるという点で有利だろう。
研究の効率という点でも,英語を中心に据えた方がよいのかもしれない。学会で会った台湾の友人は,中国語(あるいは漢語系諸語)についての少なからぬ研究が,英語圏での言語学の研究成果を参照しているのであるから,英語で受信し,また発信した方が効率がよく,言語学のメインストリームにもコミットしやすいのだ,といっていた。
とはいえ,母語以外の言語の習得には,それなりの時間と費用と労力がかかる。さまざまな世俗の雑事などもあり,英語習得に充分な時間が割けない人も多いだろう(これはわたしの言い訳か)。畢竟,非英語母語話者は,英語学習をしなければならない分だけハンディとなるのだ(その時間を研究にあてられれば,より多くの成果が出せるかもしれない)。そして,英語力に応じて情報格差が生じることになる。このような状況を打開するためには,経済的余力があれば,会議の場では同時通訳(今回は英語を中国語に通訳)をつけるべきだ。これで,特定言語が不得手な参加者が,平等な立場で議論することが可能となり,また主催者側が少数言語にも多少なりとも配慮しているという多言語主義的な態度の表明にもなるのである。
いずれにせよ,このような状況が続けば,国際学会では中国語ですら劣勢言語になってしまうかもしれない。いわんや,わたしの母語である日本語は,もとより一顧だにされないのである。つまり,日本語で発信しても,その影響力は限定的になってしまうわけだ。国際的に認知されたければ,好むと好まざるとにかかわらず,英語,あるいは少なくとも中国語で発信する必要があろう。わたしが日本語で書いた論文について,別の台湾の友人は,読めなくて残念だといっていた(たとえ日本語であっても,読んでもらうだけの論文を書け,というつっこみは覚悟の上であるが)。
もうひとつ気がついたのは,学会では大学院生の発表が少なくなかったことだ。会場が北米であるから,地元以外の学生は経済的な理由から参加が難しいだろう。とはいえ,台湾の学生なども含めて,思った以上に学生が多いという印象を持った。日本の国際的な発信力ということを考えれば,特に,若い研究者は,発信するためのスキルを磨くためにも,とりあえず国際学会にどんどん申し込んでもよいのではないだろうか。そして,母語以外の言語でプレゼンする訓練は,早いうちにしておいた方がよい。
結局,今回の学会では,キーノートスピーチあるいは一般の発表でいくつか興味があるものがあったが,そのうちの多くが英語であったために,英語力が不十分なわたしは,その場で,すんなりと理解することは難しかった。特に,Bare classifier phrasesという分科会(これで分科会になるのがすごい!)には,かなり興味をそそられたが,英語がナチュラルすぎたため,それについていくのに必死で,内容の理解がなかなか追いつかなかったのは残念だった。
チャールズ川近くのLegal See foodsで,地元のビールであるSamuel Adamsを味わいながら,現在の日本語母語話者である中国語研究者には,研究対象である中国語(あるいは漢語系諸語)以外に,アウトプットのための英語習得もそろそろ本格的に必要なんだろうなぁ,と改めて思ったのである。
版本調査の話
版本調査の話をさせていただこうと思い,冒頭に,「ここ数年,毎年夏になると北京に行き,国家図書館の善本閲覧室で『国語』の版本の調査を行っている」と書いたあと,ふと,最初に行ったのは何年だっただろうと振り返り,それが2007年であることに驚いた。もっと前から,もっと数多く通っていたような気がしていた。
2007年の夏,はじめて国家図書館善本閲覧室を訪れた。おもな目的は,黄丕烈の『国語』校本の書き入れを調査するためである。貴重書の閲覧は原則として認められないということで,はじめのうちはマイクロフィルムによって黄丕烈の題跋や校勘記の文字を追った。朱墨の判別は,投影機上に映し出される文字の濃淡で見当をつけるしかなかった。しかしフィルムではどうしても判断のつかない色,解読できない文字もある。そこで書庫に自由に出入りできる善本閲覧室の方に,原本との照合を依頼した。董蕊さんという若いスタッフが快く引き受けてくださった。校本を数枚プリントアウトし,照合を要する箇所に印をつけてお渡しした。董さんが原本によって確認してくださったものを見ると,フィルム上には写っていなかった文字や,色の判断を誤っていた文字がいくつかある。少なくとも次の論文で取り上げる字句については,すべて原本と照合しなければならない。お忙しい董さんにはもうしわけなかったが,改めて数枚をお願いした。翌日にはさらに数枚を,翌々日には十数枚をお願いした。董さんも,さすがにこれには対応しきれないと思われたのだろう。「上司に相談してみます」とおっしゃって,善本特蔵部文献開発主管の趙前先生を紹介してくださった。趙前先生に事情をお話しすると,あっさりと原本閲覧の許可が下りた。
今から二百二十年前,乾隆五十五年(1790年)の冬,江蘇長州の藏書家・黄丕烈は友人から重刻公序本『国語』を譲り受け,二種類の『国語』別本すなわち陸敕先校本と惠棟校本の臨本を用いて校勘作業を行っていた。その頃,『国語』版本の主流は公序本で,何種類もの重刻版が流通していた。陸敕先校本も惠棟校本も,底本は重刻公序本である。黄丕烈校本とは版を異にするものの,宋刻公序本を祖とする点は同じである。二種類の別本の校勘資料としての価値は,むしろそこに書き入れられた明道本との校勘の記録にあった。宋刻明道本『国語』は早くに逸しており,抄本しか伝わっていない。しかも質のいい抄本を手にするのは容易ではなかった。黄丕烈は陸敕先校本,惠棟校本に書き入れられた校勘記を頼りに,明道本との校勘作業を行っていたのである。もどかしい作業だったと思う。
五年後の乾隆六十年,黄丕烈は影抄明道本『国語』を手に入れ,校勘を施し,納得の行く校本を仕上げる。そのときの喜びは,巻頭の題記に溢れている。楷書で大きく「而今而後,『國語』本當以此爲最,勿以尋常校本視之」(今後,『国語』はこれをもって最も優れたものとするべきで,並の校本を見る目で見てはならない)と記された文字を眺めているうちに,私は涙がこぼれそうになった。
前年の冬,私は「『国語』版本考-公序本と明道本-」と題する論文の資料として,黄丕烈校本の題跋を読んでいた。テキストには,始めは『士礼居藏書題跋記』に収録されているものを,後にはその依拠本である楊紹和『楹書偶録』を用いた。『楹書偶録』に収められている題跋は,晩清の藏書家・楊紹和が黄丕烈校本から写し取ったものである。題記・跋文の順序はオリジナルとは異なる。文字の異同も疑われる。しかし当時の私にはそれしか拠るべきものがなかった。八ヶ月後,原本を求めて北京へ向かった。だが国家図書館における調査でも,最初の一週間はマイクロフィルムしか利用することができなかった。間接的な調査には不安が残る。「原本が見たい,原本が見たい」と念じ続けていた。そのもどかしさは,公序本の異本だけを頼りに校勘作業を行っていた黄丕烈の心情にも通じる。明日は帰国という日に,ようやく原本を見ることができた。朝九時から夕方四時半まで,水も飲まずにひたすら書き写した。乾隆六十年に影抄本を手に入れた黄丕烈も,寝食を忘れて自身の校本と見比べていたはずである。その姿が目に浮かび,「乾隆嘉慶期の藏書家,校勘学者」でしかなかった黄丕烈が,身近な存在として感じられるようになった。
翌2008年の夏,再び国家図書館を訪れた。前年の調査で顔なじみになったスタッフの方々が暖かく迎えてくださり,黄丕烈校本の閲覧もすんなり許可された。恵棟校本の原本も閲覧することができた。書見台をふたつ並べて,黄丕烈校本と恵棟校本を同時に眺めるという至福に酔いしれた。欲をいうともう一点,目録に「國語二十一卷,呉韋昭注,明嘉靖七年金李澤遠堂刻本,顧之逵校並臨段玉裁校跋」とある校本も見たかった。しかし貴重な原本の閲覧を重ねてお願いするのも憚られて,マイクロフィルムの調査だけで済ませてしまった。それが失敗だった。柄に合わない遠慮と手抜きが,後で大きな過ちを招くことになる。その顛末を書くと長くなりそうである。2009年度の調査と合わせて,次の機会にお話しさせていただきたいと思う。
“明白”,“dong3”,“dong3得”と“弄dong3”
“明白”,“dong3(立心偏に「董」,以下同じ)”,“dong3得”については,『中国語類義語のニュアンス』(相原茂,荒川清秀,大川完三郎,杉村博文編,東方書店,1995)のなかで大瀧幸子先生が詳細に論じておられ,本稿もそれを逸脱するものではないが,新たな視点から,“弄dong3”も加えて分析してみたい。
“明白”,“dong3”,“dong3得”は,日本語ではいずれも,一般には「分かる」と訳され,置き換え可能な場合もある。
『学漢語近義詞詞典』(趙新、李英主編,商務印書館,2009)によると,これらは「いずれも動詞として用いられ,事実や道理を分かった,理解したことを表し,ときには互換できる」とある。例えば次のような例を挙げている。
1) 他看了半天,還是不明白文章的意思。(dong3/dong3得)(彼は長い時間かけて読んだが,やはりその文章の意味が分からない)
2) 他講了半天,大家終於dong3了他的意思。(dong3得/明白) (彼が長い間話して,皆はついに彼の言わんとすることが分かった)
3) 読書可以使人dong3得很多道理。(dong3/明白)(読書は人に多くの道理を分からせてくれる)
一方で,“dong3/dong3得”と“明白”の異なる点として,次のように説明している。
「“dong3/dong3得”は主に道理や認識を獲得し,どのようにするべきかわかったことを表すのに対し,“明白”は主に事柄に対してはっきり理解し認識し,あやふやなところがないことを表す」としている。そして次のような例を挙げている。
4) 王京很dong3礼貌,很dong3道理。(*dong3得/*明白)(王京はとても礼儀をわきまえているし,道理もわきまえている)
5) 我們経歴了許多痛苦,於是更dong3得享受歓楽。(*dong3/*明白)(私たちは多くの苦しみを経験した,そこでなおのこと楽しみを享受することがわかった)
6) 大家心里都很明白他是個什麼様的人。(*dong3/*dong3得)(皆は心中彼がどういう人かよく分かっている)
4)〜6)の例文を見て疑問に思うのは,同じく「道理や認識を獲得し,どのようにするべきか分かったことを表す」のに,“dong3”と“dong3得”が置き換えできない場合があるのはなぜか,という点である。両者の使い分けにどのような要因が働いているのだろうか。興味深いのは5)の例である。5)は,「多くの苦しみを経験した」ということを経て,ようやく「楽しみを享受することが分かった」のである。この“dong3得”を“dong3”に置き換えることはできない。5)の例文から推察されるのは,「分かる」までになされた努力や経験の多寡によって,両者は使い分けられているのではないかということである。そのことを裏付ける例を挙げよう。
7) 他毎天刻苦学習,才dong3得/弄dong3了那条数学的道理。(*dong3/*明白)(彼は毎日懸命に勉強して,やっとその数学の道理が分かった)
8) 他去図書館調査過許多資料,才dong3得/弄dong3了那個歴史上的問題。(*dong3/*明白)(彼は図書館へ行って多くの資料を調査して,ようやくあの歴史上の問題が分かった)
例7),8)のように多大の努力をした結果分かるようになったというときは,“dong3得”,“dong3”のうちだと“dong3得”が用いられ,“dong3”には置き換えられない。更に言えば,インフォーマントによると,“dong3得”より“弄dong3”の方が動作主の「分かる」ための積極的な関与が感じられ,一層自然であるという。
このような観点から見ると,例4)の“很dong3礼貌”(礼儀をよくわきまえている),“很dong3道理”(道理をよくわきまえている)というのは,それほど多くの努力や経験がなくても実現可能である。そして例6)の“心里很明白他是個什麼様的人”(心中彼がどういう人かよく分かっている)というのは,一番自然に「分かる」ことができる。
ここで例1)〜3)のうち,特に1)と2)の“看了半天”(長い時間かけて読んだ),“講了半天”(長い間話した)は相応の努力をしていると言えるが,1)は否定形で努力や経験の多寡の違いが中和されているので,“明白”,“dong3”,“dong3得”のいずれも使えるのであろう。
また2)は「長い間話して」努力した“他”(彼)が「分かった」主体ではないので努力や経験の多寡の違いが反映されず,これも三つの動詞とも使えると思われる。
以上のことから,“明白”>“dong3”>“dong3得”>“弄dong3”の順に,「分かる」ためになされた努力や経てきた経験が多いと言えるであろう。そのことの証左となるのが次の例である。9) 他自然而然地明白了。(彼は自然に分かった)
10) 他好容易弄dong3了。(彼はやっとのことで分かった)
例9)の状語“自然而然地”(自然に)が最も自然に共起するのは“明白”であり,10)の状語“好容易”(やっとのことで)が最も自然に共起するのは“弄dong3”である。
以上,「分かる」ための努力や経験の多寡という視点から,“明白”,“dong3”,“dong3得”,“弄dong3“の違いを述べた。ささやかではあるが,この四つの動詞の使い分けをいくらかでも明らかにできていればと思う。
“米”と“面”の意味
中国語の“米”と“面”に関しては少しでも中国語をかじっていると,大体の意味が分かるだろう。しかし,実際の場面にぶつかった時,ややもすると,その意味の取り違えをしてしまうことがある。
まず,“米”について見てみよう。
『現代漢語詞典・第5版』(商務印書館)の説明だと ,“大米”のことであると分かる。しかし,“大米”と言っている以上,それに対応する“小米”があるということも忘れてはならないだろう。この“小米”というのは,いわゆる“普通話”の言い方で,実際,中国の北方で,例えば私の田舎の山西省では,元々米が取れないから,普通に言う“米”はすべて粟のことである。“米湯”というのは,“普通話”の“小米粥”(粟粥)のことだが,田舎では別にわざわざ“小米湯”または“小米粥”などとは言わない。今,日本では「米粉」といって米を粉にしていろいろな食品を作っているが,私の田舎ではずっと昔から,粟を粉にしていろいろな食品を作っている。例えば,“米面饅頭”(粟粉で作ったマントー),“米面餅”(粟粉で作った焼きパン),“米面[米羔]”(粟粉で作ったケーキ)など。山西省を始め,北方の多くの地域では“米”と言えば実際粟のことを指すということを理解してもらいたい。ちなみに,“米飯”の場合,“普通話”でも,米のご飯と粟のご飯の両方を指す(『現代漢語詞典』)。
日本語の「米粉」は,中国語“普通話”では“米面”がこれにあたるが,上記のように,私の田舎では“米面”というのは,粟の粉のことである。このことを念頭において,“面”の意味を見てみよう。
ある中国語の事情を述べるエッセーの本を見ていると,とてもいい本だが,中国語の図鑑を紹介するところで,中の“米、面”のジャンルのタイトルが直接日本語の「米、麪(原文のまま)」と訳されている。図鑑では中国語の“米、面”類の食品を絵で説明している。そうだとすれば,中国語の“米”の訳は(中国語の“普通話”からすれば)一応正しいと認められても,“面”のことを直接日本語の「麺」としたのではいささか問題があるように思われる。
確かに日本語では,「米」と「麺」が並んだ場合,その「麺」はラーメンや蕎麦などの「麺類」のことを指す。しかし,中国語の図鑑の“米,面”についての説明では,上記の“米面”の説明でも分かるように,その“面”は決して「麺類」のことを指しているわけではない。中国語の“面”はまず「粉」の意味で,そして図鑑で言っている“面”は“面食”のことである(ちなみに,図鑑の英語の説明はflourとなっている)。“面食”とは“用面粉做的食品的統称”(『現代漢語詞典』),つまり「小麦粉で作った食品の総称」である。中国語の“面”はまず「小麦粉」のことで,そして図鑑の説明は“面食”のことだと理解してはじめてその“米、面”の並べ方が納得されるだろう。
中国人の間ではいつもこの“米、面”のことで「口喧嘩」をしている。北方の人は,「南方の人は“米”が好きで,“米”ばかり食べている。その“米”ってどこがおいしいというのだ。何の味もないじゃないか。」対して,南方の人は,「北方の人は“面”で作ったものが好きだと言っているが,あの“面”で作ったもののどこがおいしいだろう。何の味もないではないか。」そして,北方人は「“米”でできる食品はご飯しかないじゃないか。“面”なら何でも作れて,いろいろ楽しめる。」と反論する。そして,南方の人は「炊き立ての“米”のご飯だけで十分おいしいよ。“面”で作ったもののどこがおいしいの?」などと延々と続く。実際,私の知っている南方出身の方は北方で数十年生活していても,いまだに餃子の味が分からないといっている。一方,知人で,長く日本で生活している中国北方出身の方は,いつも“饅頭”などを恋しがっている。
以上の主張は別として,例の“米、面”に限って言えば,筆者のような南方生まれ北方育ちで,“米、面”のどちらも好きな者からすれば,残念ながら,やはり“面”に軍配を上げることにしたい。つまり,図鑑にある“米”は普通“米飯”「米ご飯」の1種類しかない(炒飯というのも,飯である)のに対して,“面”は“饅頭”(蒸しパン)をはじめ,“花卷”(花の形の蒸しパン),“包子”(中華まんじゅう),“油餅”(平ペったく揚げたパン),“油条”(細長く揚げたパン),“面包”(パン類),“焼餅”(塩味,ねぎ味などの焼きパン),そして“餃子”(ギョーザ),“焼麦”(シューマイ)などが挙げられる。“面条”(麺類)もこの“面”に入るが,“面”類は本当にたくさん種類がある。
中国語で“Ni3是吃米還是吃面?”と言う場合,その“米”は上記のように「ご飯」に限られるが,“面”は決して日本語のように「麺類」に限られるわけではない。本当に日本語の「ご飯と麺」を聞く場合,“Ni3是吃米飯還是吃面条?”と聞かなければならない(まあ,場面による場合もあるが)。
“饅頭”,“面条”,“餃子”などを作る際,“和面”という工程がある。“和面”は,「粉をこねる」ということになるだろうが,“和好的面”を日本語でどう表現するか,ちょっと迷ってしまう。“面条”の場合は,「よくこねた麺(生地)」ということになるだろうが,ほかはどうだろう。中国語の“面”には「粉」と「生地」という二つの意味があるが,日本語の場合「粉」そのものとそれをこねて作った「生地」を区別して表現するようだ。
言葉の意味って,厄介だが面白い。
口伝の威力
本日は三線(三味線)について語りたい。
三線は中国から琉球に伝わり,本土にもたらされたと言われている。三線は琉球の古典音楽のなかでは最も重要な楽器の一つである。沖縄と言えば民謡をイメージする方も多いが,琉球の古典音楽はもともと中国の使節を接待する宮中の音楽が今に伝わるもので,民謡とは随分と趣きを異にする。私は昨年から琉球古典音楽の師範に三線を習っているが,その教授法は今日,とても「独特」である。
沖縄では音楽の道場を「研究所」と称する。私が属する安冨祖流の研究所は,口伝で歌・三線を教える。師範の前に正座して,師範が歌い・弾くのを真似て曲を覚える。琉球音楽には工工四という楽譜があるが,私の研究所では使わない。演奏される曲は人生で一度も耳にしたこともない曲ばかりだが,師範が弾く指を観ながら同じ勘所を押さえ,先生の歌にひたすらついていく。戸惑いながら師範の演奏に必死に合わせることを,何十回,何百回と繰り返し,歌と三線の技術を覚えていくのである。琉球古典の教授法は伝統的にこのような口伝であったが,今もこの方法を採る研究所は少ない。
古臭く,非効率だ。時代に合わない。そうお思いであろうか。楽譜を使い,最新のツールと教授法,学習者の気質に合わせた方法ならもっと巧くなる,そう思われる向きもあるかも知れない。確かに,手間がかかる。気の抜けない一対一の場である。師範の手から一瞬でも視線を外すと,即座に「私の手を観なさい」と注意が飛ぶ。しかし,師範は私が間違えるたび,弾き直して下さる。師範には頭の下がる思いである。幾度となく失敗を繰り返し,申し訳なく,情けない思いにかられる。だが,先の見えない反復のなかで,次第に音はメロディに,音節は言葉になっていく。そして,徐々に,確実に師範の手と節回しが血肉化される。教育において学習者のパフォーマンスがより重要であるなら,これほど効果的な方法はない。今ではそう思う。
だが,こうした方法は弟子の師匠への信頼なしには成立しない。弟子が師匠を疑い,相対化し,評価するようなシステムでは,信頼関係の構築はおろか,お稽古を継続していくことすら困難であろう。伝統芸能において,初心者の個性や自己流の演奏など,微塵の価値もない。学問研究で必要とされる学生の批判的精神は,技の継承を第一とする場では大きな障碍となるのである。こうした精神的なことも含め,口伝という方法に,教え・教えられることの往事の姿を垣間見た思いであった。
昨年の八月。私は琉球古典音楽コンクールで新人賞を受賞し,それ以降,結婚式の余興や演奏会でたびたび演奏させて頂いている。そして,昨年の12月の演奏会では,新人賞受賞者のなかから3名が選ばれ,伊野波節を独唱させて頂く栄誉に浴した。4月には県内最大のホールで7曲を斉唱することになっている。演奏を通じて大学以外の方々と知遇を得て,日々,楽しくお稽古させていただいている。
ここまで読まれて,私をよく知る方のなかには,この文章の「真の狙い」を悟って苦々しい思いを噛み締めた方もいらっしゃるかも知れない。イシザキは,畢竟するところ,三線自慢をし,沖縄生活の悦楽を披瀝したかっただけぢゃぁないのか。三線と中国の関係云々や口伝や教授法といった話も,単なる自慢への前振りにすぎぬ,と。
レシテーション大会と弁論大会
毎年10月と11月は学会やら種々の入試やらで,ほとんどの週末に用事が入り,かなり忙しい日々を過ごすことになるが,ここ2年ほどは,この時期さらに2つのイベントの練習日程でスケジュール帳が埋めつくされる。それがレシテーション大会と弁論大会である。
レシテーション大会というのは,2年前から本学の大学祭行事の一環として行われているもので,正式名称を「多言語競演レシテーション大会」という。外国語系で大学祭と言えば,一般的には「語劇」だが,後発では新鮮味がないということでレシテーション(暗誦)になった。本学の外国語学部には,中国以外に英米・フランス・スペイン・ドイツの専攻があるが,各専攻の言語で詩や小説・戯曲など有名な文学作品の一節を暗誦し,観客の投票によって順位を決めようというものである。第一部が学習1年目,第二部が2年目以上対象で,英語は第二部にしか出られない。これは大学が宣伝目的で始めたことであるから,出場者選びや発音指導,当日の演出など,最初のうちはすべてこちらの主導でやらなければならない。
本学の客員教授・劉乃華先生は中国でずっとスピーチや朗読の指導に携わってこられた方で,この方面をお願いするにはうってつけの存在なので,こちらは安心してサポートに徹すればよい。コンテストと違って審査員がいるわけではないのだから,要するに観客に受ければよいのだろうということで,一昨年は衣装を伝統服で揃え,BGMや背景画像にも凝って孟浩然『春暁』などの唐詩を暗誦し,第一部で2位に入った。昨年からは他の学科も演出に凝り始めたのでやや焦ったが,我々は第一部に『論語』,第二部に魯迅『故郷』で臨み,それぞれ1位と2位を取った。他の大学ではどうか知らないが,本学では欧米系に押されて中国学科の立場が弱いので,大いに面目を施した次第である。
その余勢を駆って,一昨年からは京都外国語大学主催の「全日本学生中国語弁論大会」にも出場者を出している。これは半年以上中国に滞在したことがない2・3年生を対象とするスピーチコンテストで,主に関西・中部地区の外国語系大学から参加する。学生は約5分間の原稿を暗記して臨むことになるので,実質的には夏休みから準備を開始し,練習に割く時間もレシテーション大会よりは格段に多い。一番大変なのは劉先生で,学生の書いた中国語原稿の添削,徹底した発音訓練から各種表現技巧の指導まで,こちらが申し訳ないほどの熱心さで取り組んで下さる。僕は練習時間と場所の手配をしたり,日本語を話さない劉先生のために通訳を買って出ているだけである。一昨年は2人出場して1人入賞だったが,昨年は3人出場して3人とも入賞,うち1人が最優秀を獲得するなど,本学は大躍進を果たした。早速大学のホームページや広報誌で大々的に宣伝したことは言うまでもない。
弁論大会の会場で先輩や知り合いの研究者を偶然見かけ,同じように引率で来ていたことを知って驚いたり,今年は負けたが来年こそはうちが勝ちますよ,などと言い合うのも楽しい。僕はもともと文学部中文専攻の出身だから,学生時代にスピーチコンテストのようなものに参加したことは一度もないし,そもそも現代語の運用能力を上げようという意識すら希薄だった。20年経った今,こうしたことに取り組むようになったのは自分でも意外だが,ともあれ僕の周りにいる熱心な同僚と熱心な学生に引きずられるようにして,秋にやってくるこの2つのイベントを楽しんでいるのである。
辞書のゆくえ
昨年末に愛知大学現代中国学会から刊行された『中国21』第32号(2009.12.30)では,「辞書のゆくえ」というテーマで特集が組まれている。これは,中国語辞典を中心に辞書の現状と将来を考えるというもので,そのきっかけとなったのは,『中日大辞典』第三版出版の準備過程で,中国語辞典の抱える問題について改めて色々と考えさせられたからである。
特集を任されどのような内容にするか頭を悩ませていた時,2008年の京都外国語大学で開かれた本学会全国大会のシンポジウムにおいて中国語学習辞典のことが取り上げられた。それは私にとって正にタイムリーな企画であり,早速コメンテーターの方に執筆をお願いすると同時に,特集の内容もほぼ固めることができた。辞書について議論する機会が,これまで支部例会等ではあったものの全国大会では初めてで,その英断にこの場を借りてお礼申し上げたい。
そこで取り上げたのは中国語辞典,国語辞典,英語辞典についてであり,辞書全体のことを考えるものではないが,それぞれの辞書の特色や様々な問題点が明確に示されており,興味のある方は是非そちらをお読みいただくとして,ここでは私の個人的な感想を2つの点に絞って書かせていただきたい。
第1は,現在の辞書が抱える大きな問題として電子化の問題がある。今回の特集でも多くの論者が指摘しているように,これは今後さらにその対応を迫られる問題としてまず考えておかなければならないだろう。紙辞書と電子辞書との関係は,現在発売されている電子辞書のコンテンツとなっているのが既存の紙辞書であることを考えるとあまり問題にならないかもしれないが,今後は紙辞書ではなく直接電子辞書として発売される可能性がある。この場合,紙辞書が持つ特性が失われてしまうことになり,それに対するご意見は多くの方がお持ちだろう。私も紙辞書世代の1人であり,紙辞書の良さについては十分に理解しているつもりである。
しかし,IT化が急速に進んだ現代社会においては,好悪に係わらずその対応を考える必要がある。特に学生の電子辞書使用率を考えると,この問題は避けて通れないものになっており,最近ではあまり騒がれなくなったが,本があまり売れず携帯小説が流行するなど,紙離れがかなり顕著になってきている。学生にとって電子辞書は便利グッズであり,実際に使ってみると電子辞書ならではの面白さもある。また辞書編集の側から言っても,近年の社会情勢の急激な変化に伴い,従来では考えられない速度で新語が次から次へと出てきて,それらに対応していかなければならいという実情がある。実際,第3版でもかなり新語を取り入れたが,紙幅の関係上同数の語彙を削除しなければならなかった。今回の改訂で最も難しかったのがこの問題で,前述の特集の座談会でも触れているが,1冊の辞書ですべてを網羅することは不可能であり,このため複数の辞書が必要となる。電子辞書だとこの問題を解決することも可能となるわけだが,我々はそこからさらに一歩進んで語彙データベースの構築ということも視野に入れて検討中である。
第2に,コーパスの活用ということである。これは,英語辞典ではかなり早い段階から採用され,現在ではかなり一般的となってきている。辞書の機能を仮に「読解用」と「作文用」とに分けた場合に,現在の辞書の多くはその両方を意識した編集となっているが,特にその後者における利用価値が極めて高いといえよう。『中日大辞典』は前者を強く意識して編集されており,コーパスの活用が必ずしも緊急課題とはなっていないが,今後この面での研究が進めば,それらをどのように辞書編集に反映させていくのかが問題となろう。また,コーパスの特性を活かして後者に特化した辞典の開発も必要になると思われ,ユーザーの視点に立った新たな検討が求められている。この点について言えば,特集の中にある中国での研究成果が大いに参考になる。
今回,辞典の出版及び辞書の特集を担当して,近年の日本の中国語辞典の充実ぶりと,それらに込められた編集者の熱い思いに改めて気づかされた。辞書の出版はまさに一大事業であり,限られた条件の中でそれぞれの編集者が特色を出すために様々な苦労を重ね,その結果として多様な辞書が存在しているということだ。しかし一方で,1ユーザーの立場から考えてみると,それぞれの辞書の特色をどこまで理解して使っているかといえば,まだまだ疑問が残る。今後は,辞書を編集する側もこの点に配慮し,紙辞書であれ電子辞書であれそれぞれの特色をより明確にし,辞書を使うことの大切さや楽しさといったことを,もっとユーザーにアピールしていく必要があるように思う。そのためにも,辞書について議論する場を継続的に設け,ユーザーと一緒になって辞書のあり方を考えていくことが必要だろう。
最後に,ほぼ20年ぶりの大改訂となる『中日大辞典』第3版が2月に刊行されるが,前述したような問題もあり予想以上に編集作業に時間がかかった。今回の改訂に対する先生方のご意見,ご教示をお願いして結びとしたい。
第59回全国大会を終えて
昨年の5月,とある尊敬する先生より次年度の全国大会を北大で開催できないかというメールをいただいた時,ずいぶんと長い間考え込んでしまった。平素から学会の恩恵を被る身,二つ返事で快諾すべきだろうが,私の事務能力は宴会の幹事も覚束ないレベル。加えて次年度は北大中文研究室としても国際シンポジウムを抱えており,とても重任に耐えられそうになかった。にもかかわらず最終的に立候補を決めたのは,理性的な判断によるのではなく,単なる“勢い”によるもの。幸い,飯田真紀先生・金昌吉先生にもお手伝いいただけることとなった。
最も心強かったのは,今大会より岩田礼先生を委員長とする「全国大会運営委員会」が発足し,開催校の事務的・能力的負担が大幅に軽減されたことである。分科会発表の審査など重要な判断は運営委員会で行っていただけるとのことで,これなら何とかなると勢いづいた(運営委員会と準備会の“合作”は最後までうまくいった。とりわけ第57回大会経験者の石崎博志先生には巨細にわたるアドバイスをいただくことができた)。
準備会としては,(1)遠隔地にも足を運んでいただけるシンポジウムを運営委員会に企画・提案すること,(2)今大会からの導入となるポスターセッションを成功させること,(3)各会場間の距離を短くして合理的でコンパクトな会場づくりをめざすこと,などを目標として掲げた。今大会の目玉の一つである「存在表現の類型と歴史」というシンポジウムの企画は,運営委員会として企画したものであるが,決定の際には準備会から積極的に発言させていただいた。発表者の先生方には,講演・司会をお引き受けいただいたのみならず,他の講演者のご紹介やシンポジウムに対するアドバイスなど,甚大なお力添えをいただいた。
分科会発表・ポスターセッションの募集を締め切った6月下旬,海外からの応募が二十件を優に超えていることに気づいて驚いた。これなら大会の盛況は間違いないと大変嬉しく思ったのであったが,私個人としては下手な中国語で毎日メールを書くことのつらさを痛感させられた。
準備会が本格的に動き出したのは分科会発表の審査も終えた8月であった。しかし,さあこれから,というときになって大会会場に関する深刻なトラブルが発生し,作業の中断を余儀なくされてしまった。茫然自失。私は大学の廊下をうわの空でふらつく日々を過ごした。ところが,この醜態が情勢を持ち直す契機となったのである。見かねた文学部の同僚が件のトラブル解決に動き出し,中文研究室の院生たちは「この男には任せておけない」と危機感を持ち,主体的に作業をこなすようになった。そのほとんどが文学・哲学専攻で本学会とは関係がない院生たちが,毎週木曜の夕方から夜遅くまで,食事もとらずに会議をひらくようになり,それぞれの役割を決めていった。
大会当日は,天候にもめぐまれ,また“公約”どおりに銀杏並木が美しく色づいた。参加者が300人を超えるという予想以上の盛況となり,スタッフは緊張感を持って本番に臨んだ。当日,分科会プログラムの印刷ミスなどが判明したが,ほとんどが私個人に起因するもので,準備会全体としては大過なく大会を終えることができたといってよいと思う。多くの方から(1)シンポジウムが興味深かった,(2)キャンパスが美しく大会を楽しめた,という感想をいただくことができた。いずれも準備会の功績ではないが,我がことのように嬉しく思った。
大会が成功裏に終了できたのは何よりも分科会・ポスターセッション・シンポジウムなどでご発表くださった先生方,司会をお引き受けくださった先生方,大会を支えてくださった大会運営委員会・執行部・事務局の先生方,そして札幌という遠隔地まで足を運んで大会にご参加くださった皆様のおかげである。衷心よりお礼を申し上げます。
来年度の第60回大会は記念大会と位置づけられ,神奈川大学で開催されるとのこと。一会員として大会の成功を心よりお祈り申し上げます。
一石で二鳥も三鳥も
初雪の舞いそうな空模様の11月1日,北海道日中友好協会主催による「2009年度全日本中国語スピーチコンテスト北海道大会」が札幌エルプラザで開催された。この大会に札幌市立大学からはじめて6名の学生が出場し,暗誦の部で2位と3位,朗読の部で3位入賞という好成績を収めることができた。中国語開講から3年目でコンテストに参加したいという学生が現れ,8月で講座が終了しているにもかかわらず夏休み明けの2ヶ月間を特訓期間として練習に励み,1つの成果をみるにいたった経過をここで紹介したい。
札幌市立大学は,06年に開学したデザイン学部・看護学部共に入学定員80名の規模の小さい大学である。05年6月,当時開学準備を進めていた札幌市市民まちづくり局から中国語担当の依頼があったとき,その内容を聞いて一瞬,「えっ,たった15回の授業!何を教えるの?」という驚きが私の脳裏をよぎった。計画されていた共通教育科目中国語の履修は,韓国語・ロシア語と同じく,2年次前期(または後期)1単位,15週というものであった。最初は驚いたが,現実の条件に即した授業の展開を目指し,07年4月の開講までの1年余り,これまでの固定観念を捨てた基本方針を定めて準備を進めた。その基本方針とは:1,大学の第二外国語の授業として,入門の基礎的内容はきちんと教える。そのためには,15回内で終えることのできる入門用のテキストを使う。2,少ない授業数で語学学習の成果を高めるために,1クラス20人以下のクラス編成を大学に要請する。3,中国語のみならず中国入門の講座として,語学学習と文化学習を盛り込んだシラバスを作る。語学学習はテキストを中心に教室で,文化学習は毎回配布するプリントを授業後各自で読む。また映像による中国紹介の時間を設け,出来るだけ多くの文化・社会・歴史・政治・生活情報を伝える。以上の盛りだくさんの基本方針は,大学側の理解も得て現在ほぼ方針通りに展開しており,幸い学生からの評価も高い。
中国語の学習で一番難しいのは,やはり発音と声調の習得である。はるか昔,私は天理大学中国学科で4年間学んだが,当時の自分は発音・声調そのものが不安定であり,理論的理解も不明瞭であったことが思い返される。そして今,全15回しかない講座の中で,入門の基本を全部教えたいというのは元々無理な話しではあるのだが,そこには,定着は無理としてもせめて基礎は一通り学んだという実感を持って欲しいという教える側の思いがあり,その実現のためにこれまで色々授業方法を工夫してきた。「一石で二鳥も三鳥も」を念頭に展開してきた授業の内容は,次のようなものである。
まず1回目のガイダンスで配布する発音教材のプリントは,クラスごとの“名単”と「母音と子音」の2種類(他に文化プリントは7種類配布)。“名単”には各クラスの学生と私の名前を簡体字とピンインで表記し,下の段に数字“一”から“十”と“零・一百・一千・一万”をピンイン付で入れてある。毎回の授業は“点名”で始まり,教師が学生の名前を中国語で呼ぶと,学生は呼ばれた自分の名前を復唱してから“到”と言う。このとき発音・声調に問題があればすぐ模範を示し,学生にも言い直しをさせる。こうして毎回繰り返せば,自分の名前を段々正しく発音できるようになる。また数字もなかなかやっかいで,日付や時間の単元で始めて発音したぐらいでは正しい声調が身に付かない。そこで毎回“点名”のあと皆で音読し,そのあと1人1音ずつ音読させていくが,必ず途中で誰かが躓き,なかなか“十”までたどり着けない。「母音と子音」は,A4サイズ用紙の上段にすべての母音を,下段に21の子音をそれぞれ表にしてまとめた自主教材で,毎回“点名”のあとに全員で音読し,口の開け方,舌の位置,息の出し方などを注意する。ガイダンスの中で特に強調するのは,「発音のときの顔の表情や,人前で教師に直されることを恥ずかしいと思わないこと。1人の発音が直されているとき,他の人は“聴力”を養うことができるのだから,全員が集中して聴くことが大事」ということである。はじめは学生も恥ずかしがっているが,誰もが次々とやり直しをさせられていくので,段々とその雰囲気を受け入れるようになってくる。
次に,自己紹介文を使った学習方法がある。使用しているテキスト『実用中国語10課』(白帝社)の各課から1文例ずつ選んでまとめた1篇の自己紹介文を前以て作っておき,名前や年齢,家族構成などの部分は自分のことを書き込ませ,毎回各課の学習の最後にその日習った文例を全員で音読する。そして15回目の授業では「クラス内コンテスト」という名称で全員が発表者であると同時に審査員となり,この自己紹介文を1人ずつ発表する。こうして「中国語で自己紹介が出来る」という到達目標の1つを,全員がクリアすることが可能となっている。しかしこういう授業ができるのも,1クラス20人以下で,という最初の要請を大学側が受け入れてくれたからに他ならない。ちなみに今年の中国語履修者は,デザイン学部46人で2クラス,看護学部55人で3クラスに編成された。デザイン学部は2クラスとも20名を超えてしまったが,基本的にこの少人数クラス体制が,札幌市立大学の「内容盛りだくさん中国語講座」を支えている基盤だと思っている。
これまでの学生の感想文の中に,もっと学びたいという声が少なからず出ていたので,今年はじめてコンテストへの参加を呼びかけてみたところ,デザイン・看護から各3名,計6名の希望者があった。そこで,発音練習は12回の授業の中でしか受けたことがないのに,それぞれ異なった課題文を選んだ学生達に週1回の特訓をすることになり,毎回「母音と子音」に沿って口の形,舌の位置,息の出し方を確認しながら,まず基本の発音を練習するところから始めた。回を重ねるに連れて学生達が「顔がだるい」と言うようになり,「これは一種の筋肉トレーニングだから,ようやく正しい発音ができるようになってきたのよ」と答えて皆で大笑した。折しも大会が1週間後に迫った10月24,25日の両日,北海道大学で「日本中国語学会第59回全国大会」が開かれ,母校天理大学教授の中川裕三先生が来道した。中川先生は,今夏,中国湖南省で行われた「第8回「漢語橋」世界大学生中国語コンテスト」で「一等賞」になった天理大学4年の岩崎元地君を指導してきたスピーチ指導の達人なので,これ幸いと特訓中の学生の朗読を録音して聞いてもらった。そしてシャドーイングが足りないという指摘を受け,残り1週間は全員ひたすらイヤホーンを耳にはさんで練習に励んだ。その結果,2ヶ月間一番熱心に練習し,私から中川先生にお願いして特別に課題文の模範朗読を吹き込んでもらった学生が,暗誦の部で2位になった。この結果は,常に注意深く状況を判断しながら指導を進めてきた私にとって,今後への大きな励みとなった。また,大学としてもはじめてのことであったようだが,練習場には交通の便の良い都心部にあるサテライトの使用を認めていただいたし,コンテスト入賞の結果は学内の広報に載せてくださるということで,今回のコンテスト出場は,学生達に授業を越えた学修モデルの一つを示したと言えるのではないだろうか。
“鳳凰男”と“孔雀女”の話
“孔雀女”絶対不嫁“鳳凰男”(「孔雀女」は絶対「鳳凰男」と結婚しない)
初めてこの言葉を耳にした時,「えっ?“鳳凰男”,“孔雀女”ってどういう意味?」と全く見当がつかなかった。
“鳳凰男”は,中国の諺“鶏窩里飛出金鳳凰”(鳶がタカを生む)から生まれた新しい言葉である。農村に生まれ,向上心と勤勉で大学に入学し,卒業後もよい就職先を見つけ,“白領”(ホワイトカラー)の地位をつかんで,都市に住み着いている男性を指している。一方,“孔雀女”とは,都市に生まれ育った一人娘で,幼い頃から恵まれた環境で大切に育てられた女性を指している。このような“鳳凰男”と“孔雀女”の結婚はここ数年増えつつあるが,双方の家庭条件や生活背景の違いにより,さまざまな衝突が起こっている。
“鳳凰男”の多くは裕福な家庭で育ったのではない。たいへん苦労して今の生活を得たため,精神的にも,肉体的にも非常にタフである。仕事場では真面目で,誠実な好青年として上司や同僚に好感を持たれ,家庭では,優しくて気がきく“模範丈夫”(模範的夫)のイメージがあるので,女性に人気がある。それに対して“孔雀女”は,小さい頃から両親や祖父母に溺愛され,何一つ不自由なく生活してきて,まさに,“飯来張口,衣来伸手”(飯が口元に来れば口を開け,服が体のところにくれば手を伸ばす)のプリンセスである。表向きは傲慢で自己中心的に見える“孔雀女”ではあるが,内面は意外と単純で,男性の能力を頼りにし,家庭を大切にしている人が多い。しかし,生まれ育った環境や生活習慣から生じた価値観は,いろいろな面に影響を及ぼしている。そのため,夫婦間ないしは相手方の両親との間でいざこざが絶えない。
このことについて専門家は次のように指摘している。数年間の都会生活や大学の学歴だけでは,“鳳凰男”の長年にわたる農村での生活習慣や思考方式を簡単に変えることができない。都会では彼らは常に新しいものを受け入れる努力をしなければならない。これはまた彼らが都会へと溶け込んでいく過程でもある。一方“孔雀女”も,夫婦双方が平等である立場から物事を考えなければならない。
去年の夏休みに一時帰国した時,『双面膠』というテレビドラマを見た。嫁姑の問題をモチーフにしたこのドラマは,東北出身の“鳳凰男”と上海生まれの“孔雀女”を主人公にし,地域文化の差異を中心に物語を展開している。大上海に残っている“小市民”意識がリアルに描かれていて,一見の価値があると思う。インターネットで『百度』( http://www.baidu.com )から「双面膠電視劇」と入力すれば,無料で見られる。
蛇足になるが,“鳳凰男”と“孔雀女”のほかに,“普相女”(見た目や顔立ちが非常に普通である女性),“優剰女”(魅力的なのに売れ残っている女性),“便当男”(質素で倹約的な生活を送る男性)と“牛奮男”(将来性がある努力家で魅力的な男性)といった言葉も若い世代で流行っている。また,日本語を語源とする“食草男”と“肉食女”も使われているようだ。
「第六届歐州漢語語言學學會學術研討會」に参加して
The 6th Conference of the European Association of Chinese Linguistics(以下,EACL-6)が8月26日から28日までの3日間,ポーランド西部の都市ポズナニにあるアダム・ミツキェヴィチ大学(Adam Mickiewicz University)で開催された。主催は当大学の言語学院(Institute of Linguistics)である。私は“On Chinese pronunciation of the 16th century in the Romanized script written by Francesco Carletti”という題名で口頭発表を行った。日本からの参加者は私一人であったので,ここに紹介を行うことにする。なお,プログラムの詳細は http://www.chineselinguistics.eu/EACL6/ をご覧いただきたい。
EACLは1998年に設立され,1999年に第1回学術会議をパリで開催して以来,2001年に第2回(ローマ),03年に第3回(ヘント),06年に第4回(ブダペスト),07年に第5回(ライプチヒ)と回を重ねてきた。第4回と第5回では,後に査読有りの論文集が刊行されている。今回はスペシャルパネルが布教に関する言語研究(Missionary linguistics in China: 17th-19th centuries)であり,現在台湾で精力的な研究活動を展開しているクローター教授が中心となって企画されたものと推察する。私の口頭発表はイタリアの商人であるカルレッティが『三大陸商業旅行記』(1606年頃の成書)に記した漢字音の基礎方言を考察したもので,漢字音自身は16世紀のものであるが,このスペシャルパネルに入れてもらう光栄に与った。
会議の構成はIACLや国際粤方言研討会と同じで,午前は前半がキーノートスピーチ,後半が分科会,午後は分科会のみであった。異なるのは分科会について口頭発表の時間が30分,質疑応答の時間が10分と長めに用意されていたことである。おかげで発表者は十分な説明が可能となり,聴く側も発表者の意図を理解することができたと思う。質疑応答では私もこれまでに参加した学術会議の中で最も多くの質問を発することができた。私は7月上旬にパリで開催されたIACL-17(國際中國語言學學會第十七届年會)にも参加して,EACL-6とは異なる題目で口頭発表を行ったが,僅か15分という発表時間のために十分に意を尽くさない結果に終わってしまったとともに,意図を理解することが困難な口頭発表も多かったと感じた。それに比べると,口頭発表の数を絞ることで発表・質疑の時間を確保するEACLの方法は,口頭発表の応募数が増加の一途をたどる昨今の学術会議の事情に照らすと,大変有難いものと言わねばならない。日本中国語学会はポスター発表や春の拡大例会を設けることで対処しており,対処方法は相異するものの,望ましい環境を維持するという点では一致している。
分科会は,スペシャルパネルの他に,現代語文法が3つ,方言が2つ,古典語が2つ,意味論が2つ,その他(タイポロジー,音韻など)が各1つであった。バランスが取れていると同時に,欧州の中国語学の幅の広さを感じることができる構成であった。口頭発表の総数は,キーノートスピーチを除くと42であり,欧州の高等学府に籍を置く研究者が多かった。台湾から(クローター教授を除き)13名もの発表者が来ていたことは印象的であったが,スペシャルパネルでの発表者はおらず,布教に関する言語研究が台湾にはまだ根付いていないことを窺わせた。分科会の口頭発表は大多数がパワーポイントを用いた無原稿スピーチで行われ,ハンドアウトを配布した発表者は数名に過ぎなかった。パワーポイントを併用したとはいえ,カメラレディの原稿を用意して配布したのは,分科会ではどうやら私一人だけだったようだ。パワーポイントのみを用いてのスピーチというスタイルが欧米で主流であること,そして高等なスピーチの技法を身につけることが自分にとっての課題であることを知る良い機会となった。
スペシャルパネルの口頭発表には,内容に関して次のような特徴が見られた。(1)マテオ・リッチとミケーレ・ルッジェーリ,ニコラス・トリゴーを開祖とする歴代の辞書や研究書が資料とされている,(2)文献資料の紹介や欧文表記法の比較が中心である,(3)中古音や近世音との対応関係に論及していない,(4)日本の研究成果がほとんど引用されていない。この中で,(1)は欧州の研究者が掲げる「布教に関する言語研究」の範囲が,日本で言う「欧州のシノロジー」や「東西言語文化交流研究」の範囲と必ずしも重ならないことを物語っている。私の口頭発表の考察対象は欧州の文献に現れた漢字として最古の一つであり,また辞書や研究書ではなく旅行記であるため,(1)の中には納まらない。「布教に関する言語研究」の範囲に対して「欧州のシノロジー」と「漢語方言学」の角度から一石を投ずることができればと思い発表を行った。それにもかかわらず,5名もの研究者から意見を頂戴することができた。クローター教授からは初期の版と字形について質問をいただき,シモンズ教授からは記される漢字音の基礎方言と層について指摘をいただいた。
一方で,(3)は言語史の中でとらえる,あるいは言語史に反映させるという意識が現段階ではまだ薄いことを物語っていると言えよう。日本の研究が彼らに対して差異化を打ち出すとすれば,この側面は重要になってくるのではないか。いずれにせよ,上記の4点が2年後にウィーンで開催されるEACL-7においてどのように伸張しているか楽しみである。
最後に,EACL-6の設営に尽力されたアダム・ミツキェヴィチ大学の教職員と学生の方々,特に細かい心配りを見せてくださったコルデック教授に心より感謝申し上げたい。ベルリンから都市間急行オイロシティで往復6時間,確かにそれに見合うだけの参加価値と収穫は有ったのだ。
2009年8月30日,帰途ロンドンにて
中国鉄道大紀行
2年生以上対象の選択科目「総合中国語」の時間に『DVD中国鉄道大紀行』を見た。俳優の関口知宏が2007年,春と秋の2回に分けて,中国大陸の鉄道網を同じ路線を2度通らずに巡る,最長片道ルートの旅をしたときの映像だ。
春の旅ではラサからゴールの西安まで主に南方の17,000kmを10週間かけて回る。このDVDは春の旅だけで全4巻,432分である。「総合中国語」は週2回のカリキュラムだったため,授業は15週で全30回あった。毎回始めに15分ぐらいずつ見ることにした。
4月,キャンパスは新学期を迎えて期待感であふれていた。関口さんの旅もチベット高原の雄大な自然を背景に始まった。5月,数千枚の棚田が広がる雲南の田園風景。新緑が美しい。教室では中国に興味のある学生が意欲的に参加して,快調に授業が進んでいた。6月,関口さんに長旅の疲れが見える。教室も中だるみの時期で,教員・学生ともに疲れ気味だった。7月,ついにゴールの西安に着いた。長かった前期の授業も終わった。旅の途中には美しい風景だけでなく,たくさんの出会いがあった。授業も同じ。今年も中国語を通じていろいろな学生と出会うことができたことは,私にとって貴重な財産である。
注文の多い料理店――ある体育会系シェフの奮闘
前日のオープンキャンパス打ち上げが効いたか,早くに目が覚めた。無論,近くの野球場からの低い声援やら太い野次やらも,十分すぎるぐらい耳に届いていた。時計に目をやれば,何と朝未き五時四十五分。がしかし,深更まで遊んでいたこちらとしては,あちらの早朝からの楽しみにも鷹揚である(それを宿酔とはいう)。こういう場合,“下手の横好き”と腐すわけにはゆくまいから,“好きこそものの上手なれ”と励ますことになるだろうか。ただ,算数で教わった通り,好きだから必ず上手になれるわけではないし,上手が決まって好きだったとも限らない。
一体,大学生であれば勉強好きなのか,或いは勉強好きならば大学生であるのか,そのあたりはよくわからない。けれど,「興味のない必修科目まで履修させるのは理不尽だ」と言い張る学生たちに従えば,否が応でも履修せねばならぬ必修科目より,各人の裁量に任された選択科目の方が,いくらかなりとも好きなのだろうとは思う。さながら味は不問,栄養第一で摂取せねばならぬ料理は敬遠しても,好物には自然と手が伸びる様なものだろう。ピーマンやニンジンは不承不承,でも肉やケーキは熱烈歓迎,と意訳して大過なかろうか。もとより,学生諸君の嗜好とメニューの相性は一筋縄ではゆかない。
わが初級クラスをいくつか紹介しよう。X学科の第二外国語科目は,週三コマ・必修である。当然,学生は辟易しているはずと思いきや,さにあらず,連中は揃いも揃ってピーマンが大好物であった。週一コマ・必修のY学部はα学科とβ学科を抱えるものの,前者は中国語を必修科目から除外する。ところが,わざわざ選択科目から第三外国語として中国語を学び,しかも優秀な成績を収める学生が少なくない。この学科には元来,肥えた舌,丈夫な胃の持ち主が集っているのである。Z学部は週一コマ・選択,語学に最も冷淡という意味で,X学科の対極といってよいだろう。だが,語学を選択科目に配したゆえに,美食家の釣れる可能性がないともいえない。果たして現実や如何に。
結論からいうと,Zの学生にとって選択科目とは,必ずしも好物を意味しなかった。聞けば,そこでは消去法が幅を利かせており,あれも嫌,これもダメの挙げ句に残ったのが中国語,いわばデモシカ履修者が一定数いるらしい。なるほど,美食家というより偏食,或いは単に悪食と呪うべきかもしれないのだが,そこはそれ,むしろ×曜日△校時のメニュー八品目の中から,よくぞ中国語を,選りに選って私を,と理解すべき筋ではないのか。嗚呼,残り物に福あれかし,釣った魚にこそ餌はやるべけれ。かくて,妙なヒロイズムに酔った私は,仇を恩で返すべく熱血コーチに化けることになる。
御承知の通り,選択科目は中途で放棄されやすいし,それを恨んでも始まらない。そう,恨んでも始まらないのだが,実のところ,未だ恨みを呑む如き深刻な事態には至っていない。意外や意外,脱落者はほとんど出ず(皆無とはいわない),彼らは嬉々として学習に勤しんでいるのである。
その理由を考えるに,やはり中国語特有の教学法が大きいのではないか。要するに,例の発音練習である。どなたも首肯して下さるだろうが,あれはクラスの連帯感一体感を強く育んでくれる。その教育的効果たるや,我々が想像するより以上に,また発音の習得という第一義より以上に,おそらくは大きい。
例えば受験勉強,その典型としての英語学習は,何となく座学的個人的な印象が強い。誤解を恐れずいえば,その内向的求心的なベクトルは,どことなく文化部系の活動を彷彿させもする。片や,方法としては素読にも似た中国語学習は,むしろ体育会系のそれに通じるところがありはしまいか。少なくとも発音練習が実技に近いことは間違いない。文化部と熱血教師は水と油かもしれないが,体育会に熱血コーチは付きもの,見る前に飛べ,悩む前に発声せよ,だ。抑も,私が過剰に熱血コーチを演じている時,彼らが熱血部員に興じていないとも限らない。ティーチング対コーチングといおうか,頭脳対身体といおうか,いずれも後者のエッセンスが受験生だった彼らに新鮮に映っているフシはある。隣人もライバルではなく,今やチームメイトなのである。
気がついたら好きになっていた,そういうものだろう。上手になれるか否かは,それとは取り敢えず関係がない様に思う。あまり功利的打算的に考えすぎると,気がついたら嫌いになっていかねない。いい大人が朝も早くから心浮き立つ様に,学生諸君にワクワクしてもらえないものか。苦悩を振り払うべく,熱血コーチは今日もまた四声を絶叫するのである。
「宝貝」のような電話のはなし
中国語に興味を持った学生が投げかけてくる質問は,今まで何気なく使っていた言葉を,改めて見つめ直させてくれることがある。これは,ある量詞についての質問を受け,その量詞のイメージをつかませようと,語彙の背景の説明を考えていた時に,ふっと思い出した,電話の話である。
辞書によると,電話の量詞は「個,門,部」とあるが,ラジオやテレビとどう違うのか,という質問を受けた。「個」はともかくとして,「部」や「門」はどういうことであろう。「部」で数えるものは「書籍,映画,車両,機械」と,「門」は「学科・技術,大砲,親戚」と,辞書は説明している。(他の辞書には「台,架」とあるが,彼女のもっていた辞書にはそう記されてはなかった。)
「部」,「門」から連想されるのは,機関や軍隊,一族・家庭や学術・宗教の組織など,どちらも組織単位ということである。そこから考えられるのは,生活における電話という存在の位置・意味合いであろう。中国で電話が個人の持ちものとなったのは,ここ数年としても,一家に一台が当たり前となったのですら十数年前のことに過ぎない。各家庭に電話がついて便利になったと思っていたのも束の間,あっという間に携帯が普及したのである。その前はというと,数軒または十数軒の家庭で1台の電話を共有していた。電話番をしている人が,家まで呼びに行ってくれる。しかし,寮と違って常に誰かが側にいるわけではない。毎日決まった仕事場に行く人は,「家に電話はないし,呼び出しも不便だから」と,仕事場の電話番号を教えてくれることが多かった。
90年代前半の北京では,電話があるという家庭は特別であったが,一般人にはまだ贅沢品だという程の認識であった。ところが,電話とはどれほど貴重な価値をもつものなのかと,目を疑うほどに驚いたことがあった。
97年の夏,四川省の大足に向かっていた道中の話である。重慶の長距離バスターミナルで,バス会社の都合により,個人営業の小型バスに乗せられる羽目になった。バスは,座席を人でいっぱいにするまで待ちに待ち,2時間余り経った後,やっと走り出した。ボロボロのバスは,高速道路に乗ると,解体するのではないかと思うほどに,ガタガタと賑やかな音をたて,耳が痛くなった。早いとはとても思えない。私は大足のホテルが,遅くなったからと,キャンセルしてしまうのではと,心配になってきた。万が一の時は,泣いて,ホテルの人達の情に訴えるしかないか?!と,次の手段の構想をあれこれと練っていた矢先である…,突然,「パーーーーーン!!!」と耳をつんざくような破裂音がした。車体はお尻を大きく振りながら道の脇に寄り,トロトロと休憩所に入った。今日中に着くのだろうかと,心は更に重くなる。バスを降りると,敷地の奥に建物が見えた。「もしかして」と期待を抱きつつ近づいていくと,ガソリンスタンドだった。ドアは開いている。良かった,まだ人はいるようだ。
中には3人ほど従業員がいた。「何の用?」ときかれたので。「あの…電話を使いたいんですが…」というと,1人が「ないよ。」という。「大足行きの車が故障して,遅くなることをホテルに言っておかないといけないんです。お金は払いますから。」というと「高いよ!」といわれた。「かまいません,いくらですか?」とおそるおそる聞くと,「1.5元」とのこと。内心,「やすっ!」とホッとしながら承諾すると,お姉さんの1人が鍵を手にし,ついてこいという身振りをする。
後について,奥の部屋に入っていった。彼女は電気をつけると,ガランとした部屋に,ポツンと置いてある机へ向かい,机の引き出しに取りつけてある,南京錠を開けた。そして,引き出しの奥からジュラルミン風の小箱を取り出すと,机の上に置いた。なんと,箱にも南京錠が付けられている?!その蓋を開けると,中から電話を取り出した。そういえばこの部屋に入る時も鍵を開けた。とすると,この電話は3重に守られているということか?!もしかして,この部屋は電話を設置するための部屋なのだろうか??と,目の前の光景に困惑しながら,夢うつつ気分でいると,彼女が振り返り,「電話したら」といってくれた。
大足のホテルにはすぐに繋がり,電話の向こうからは,「わかったわ,大丈夫。フロントに人がいなかったら呼んでね。」と明るく気さくな声が聞こえてきた。まったく大丈夫とは思えなかったが,それでも少しは気が楽になった。
その後は順調に大足に着いた。勿論,大足石窟が目的の旅行だった。しかしながら,この旅で強く印象に残っているのは,3重に守られた電話だった。何でそこまでする必要があったのだろう?この話をすると学生は,電話がかかってきたら取れないじゃないですか,といった。確かにそうなのだが,あの光景は外部など関係ない。あくまでも内部に対して,電話を大切に保管している,という姿勢にしか取れない。仕事場の電話は便利だから,頻繁に連絡用として使う人がいるのだろうか?それとも,とてもとても貴重品だから,滅多なことには使わなかったのだろうか?
そんなことをつらつら考えると,電話というものは,個々の「機械」として認識される前に,職場や住居という「組織が所有するもの」として認識されてきたのであろう,という思いを強くするのであった。
既習者クラスのこと
大東文化大学で2度目の既習者クラスを担当することになった。大東の既習者クラスは,中級レベル以上の中国語力を持つ学生を対象とし,高校や留学で中国語を学んだ日本人の学生と,幼少期を中国で過ごしたり,中国人の家庭で育った中国ネイティブの学生で構成される。毎年20名弱のクラスで日本人学生は約2割,大半はネイティブの学生である。
実際にネイティブの学生に接するまで,私は漠然とネイティブだからできるはずだ,と思っていたし,中国語のレベルは中国に居た期間に比例して高くなると思っていたが,実際はそうではなかった。
同じ期間を中国で過ごしていても,日本語能力試験1級と中検準1級を取得している学生もいれば,日本語は会話レベルの文しか書けず,中国語は簡単な漢字やピンインも書けない学生もいる。しかし話す,聞く能力は私より高い。こうした学生達にまじって日本人の学生がいる。誰を基準にして,何をどう教えていけばいいのか,試行錯誤の連続だった。中検3〜2級,HSK中級レベルを目安にリスニングと文法の問題を用意し,学生の反応を見ながら毎回小テストを行い,課題を提出させ,「易しすぎる」だの「難しすぎる」だの文句を言われながら毎回の授業を何とかこなしていった。
お互いに疲れとストレスがピークに達した頃に,ちょうど学期末になる。1年の前期にクラス内でちょっとした揉め事があり,その仲裁のためクラス全員で食事をしてから,試験が終わるとクラスで食事会をするのが慣例になった。授業は出たり出なかったりだが,こういうセッティングをするのが得意な学生がいて,適当な店を見つけてきてくれる。2年の後期には中国からの客員の先生もお招きして,上野の中華料理店で食事をした。この客員の先生とセッティングしてくれた学生は1年のときに衝突し,私は学生を連れて先生のところへお詫びに行ったことがある。そこで「あの時あんなこともあったけれど,今はどう?」ときいてみると「今はちょー好き」と言うので,私はほっとする反面当時の緊張を思い出してがっくりしたのだが,2年後学生にこう言わせしめる中国の先生の指導力に改めて敬服した。
2年間既習者クラスを担当し,最後まで悩みの種だったのが教材選びだ。昨年までのやり方だと,1冊のテキストを通して学習するのと違い,明確な到達目標が見えず達成感も薄い。学習事項に対する試験を行うと相応の点数を取るのだが,各人の総合力をどれだけ伸ばせたかは疑問である。特に日本人の学生については,高校の先生が蓄積された遺産を食い潰しているだけのような気がして,申し訳なく思っていた。
今年は学力を目に見える形で示したら少しわかりやすいのではと思い,既習者クラス選考試験の得点結果を項目別にグラフで表し,一人一人に渡した。高校で中国語を学んできた学生は,どの項目もほぼ均一に得点しているが,ネイティブの学生は単語が弱く,中検2級を取得していても,4級レベルの単語が全くできなかったりする。ピンインを漢字に直す問題も苦手だ。クラス全体の得点表を見ながら教材を用意する。単語は初級レベルからだ。できる学生には「待った」をかけている状態になるが,クラスの成績度数分布図を作り,「この部分の学習が必要な学生がこれだけいるので今この教材を使う」ということを理解してもらう。こうしたやり方がどれだけ有効かはわからない。今年のクラスには今年の問題があって,やがてそれが噴出するだろう。とりあえず,前期の終わりには3年になった既習者クラスの学生達と合同で食事をする約束をしており,それを楽しみにしている。
新潟県立大学の開学にあたって
2009年4月,「新潟県立大学」が開学した。これは1963年創立の「県立新潟女子短期大学」を4年制,共学に改組したものである。中国語に関して言えば,同短大に1993年に設置された国際教養学科中国語コースから,県立大学国際地域学部国際地域学科東アジアコースでの履修に変わる。新しい大学の開学にあたり,筆者が在職した短大時代12年間の「中国」「中国語」をふりかえってみることにする。
4月。新潟の4月は寒い。中国語の授業では発音練習が始まる。初めのうちは口を大きめに動かすので,母音eや二重母音,三重母音は結構顎が疲れる。ga ka haの,舌の付け根から出す音は,空気が冷たい季節には,結構喉が嗄れる。
ゴールデンウイーク。大学周辺の田んぼでは田植えが始まる。
2年次の夏休みに,中国現地での語学実践活動である「実地研修」をおこなっている。期間は約2週間,場所は新潟県と友好提携を結ぶ黒龍江省ハルピン及び北京で,毎年20〜30名が参加する。学生の中には,中国の環境汚染,大気汚染の報道,情報を耳にして,研修参加に不安を抱く者もいる。1970年代,日本の東京も排出ガス,光化学スモッグなどの公害が問題になったが,当時東京におられた先生方は,今も元気に授業をされていることを学生に伝える。
中国。異国。これまでの自分と違う価値観,生活習慣,生活環境を突きつけられると,初めのうちはどうしても拒絶したくなることもあろうが,そういう経験をしたり,その時考えたことは,後になっていろいろと役に立つことがあるということを学生に体験して欲しいと思う。
実地研修が終わり,大学周辺の田んぼは一面黄金色の稲穂となる。
生まじめで,一生懸命自分の考えを作文する学生の中国語文ほど日本語直訳となり,要領よく教科書の表現をつないだ学生の作文がむしろ自然な中国語に近くなるというこの皮肉。教員の文法説明に忠実に中国語を組み立てようとする学生には,数学が好きな学生がけっこう多い。
中国で感染症SARS(サーズ)が流行した2003年,実地研修は年末の冬休みに。ハルピン名物氷祭を初めて見た。クリスマスの日,北京の街では「ジングルベル」が流れ,中国側スタッフがケーキを買ってくれた。90年代初めの中国(天津)では,クリスマスには何もなかったが,市場経済は宗教をも凌駕する?
2004年10月23日,短大は学友祭で,体育館でお笑い芸人のライブが終わる数分前に激しい横揺れ。学生部長の即断でライブは中止に。翌日の催し物も中止となった。中越地震である。めったに地震がなく,また言葉が分からない中国人の先生も,大変怖い思いをされたようである。県内でも災害時の外国人支援体制の整備が議論される。
「先生,“小姐”って,フーゾクっぽい意味あるんですか?」。2005年夏の実地研修,ハルピンの繁華街中央大街で,ある学生に質問された。中国人男性からそのようなニュアンスで声をかけられたらしい。90年代の初め,天津の大学に留学していた時,日本語専攻の二人の女性の大学院生と“小姐”という語について話したことがある。少し前まではあまり使われていなかったこの単語に,一人は「とても新鮮な感じがします」とのこと。もう一人に言わせると,「何か,軽く扱われているように感じます」とのこと。「ネエちゃん」といった感じであろうか。ちなみに中央大街で声をかけられた学生は,日本では水商売のアルバイトをしていた。
新潟には中国残留孤児の帰国者とその家族が多い。1930〜40年代,新潟は,旧満州への移民の数が長野,山形,宮城に次いで全国4位であった。2001年から08年までに,計7人の中国生まれの学生が入学した。単語を並べる言葉である中国語を母語とする学生の話す日本語は,膠である「が,の,を,に」の使い方が弱い。
「中国語を生かせる職業につきたいです」と挨拶する新入生。しかし新潟で中国語を生かせる職業は……。コシヒカリ,日本酒,農作物,三条市の金属,大陸に向いた空と海の港,温泉(?)…開拓の必要あり。
2006〜07年,突然学校に出て来なくなる学生が多かった。学生の中には「こころの病」も多い。精神的理由で食事が取れなくなるIさんは,実地研修の北京市内見学中に病院へ。帰国後も体調がすぐれず,卒業を一年見送ることになった。どうしてももう一度中国に行きたい,中国語で現地の人と交流したい,というIさんは,翌年再度研修に参加することに。2008年の実地研修はオリンピックの北京を避けて大連,瀋陽へ。李香蘭(山口淑子)ゆかりの遼寧賓館(旧ヤマトホテル)は見損ねたが,Iさんは研修を貫徹した。そして卒業論文で李香蘭をテーマに選び何とか卒業した。「こころの病」に対して「言葉」が何ができるか,考えてゆきたい。
大学の東側を流れ,日本海に注ぐ阿賀野川。新潟水俣病の発生でも知られる。大学周辺にも患者さんがいる。吉林省をはじめ中国各地でも同様の病気が発生しており,新潟の患者さんと中国側関係者の交流も始まっているという。環境や医療に「言葉」が何ができるか,考えてゆきたい。
2009年,新潟県立大学が開学し,2年制の短大から4年制へと移行した。今後どのような展開となるのか,教員にとっても,未知の「課程」である。
ヨンさまと「奥特曼」
男の子を生まなかったら決して見ることはなかっただろう番組を毎週楽しく視聴している。ちょっとお恥ずかしいが,それは仮面ライダーシリーズ。同じ年頃の男の子を持つ同僚に聞いたら,結構みんなファンで盛り上がる。その同僚の一人に薦められて,子供と一緒にウルトラマンシリーズを見始めた。同僚曰く,仮面ライダーより明るく,伝えるメッセージが健全ということだ。(ジェンダー論的にはどうかと思いますが。)ウルトラマンは仮面ライダーと比べると,展開が単純でドラマとしては少々物足りない。しかし,息子への吸引力には驚かされた。あっという間に仮面ライダーカブトとゴーオンジャーを凌ぎ,ウルトラマンメビウスが我が息子のヒーローとなった。
この2月は,CCTVの「血色迷霧」にはまって,時間が許す限りチャンネルを合わせていた。主演の柳雲龍がクールでハンサム,とても素敵だし,謎解きにも工夫が凝らされておりスリル満点だった。ただ,日中戦争前夜の中国はかなり丁寧に作りこまれているのに,敵役の日本人のリアリティのなさがあまりにもひどくて閉口した。やたら狡猾で抜け目がなく,悪趣味なほどに残酷である。大雑把ですけど,中国人に比べて日本人の大人は,無邪気でワキが甘いのが大きな特徴なような気がしている。(政治家だけか?) まあ,酔っ払い大臣を見て,中国人の日本人観も大いに真相に近づいたに違いない。ドラマでは,殺した後に肝をえぐるという猟奇的な連続犯行の真相は,なんと犯人が日本人陰謀集団だったから,という結末で,呆気にとられた。一時期ハリウッド映画の敵役が,中東系移民風であったのと同レベル,大衆「受け狙い」の一環なのでしょうか。
さて,最近北京に出張するたびに,中国人の同僚のお宅に泊めていただいている。彼女のご子息は高校一年生,やんちゃ盛りで人懐っこい少年だ。彼,通称デビッド君の部屋の本棚には,一番目に付く中段に,「名探偵コナン」(名偵探柯南)と「ドラゴンボール」(龍珠)の全巻がずらりと並べられている。私が日本人なので,彼なりのリップサービスだったのかもしれないが,幼いころはウルトラマン(奥特曼)が彼のヒーローだったとか。
お互い様ということもあるのだろうけど,一般の中国人民の日本人観が,ひと昔前のアメリカ人のアラブ人観と同じくらい誤解と偏見に満ちているとすれば,隣人として本当に寂しく残念なことだ。ヨンさまとWBCが,日本人の韓国人に対する友情と尊敬を一気に高めたことは記憶に新しい。ゆっくりで構わないから,ウルトラマン(奥特曼)世代が大人になったとき,先入観なしに素顔の相手を見る目が培われていて欲しい。頼むよ,中国のデビッド君,そして我が息子達よ。
(付記:「仮面ライダー」は中国語では「蒙面超人」というそうです。)
五感の語感
以前,大学で留学生のための授業を開設する必要があり,それならば,良い交流の場にもなるだろうと,中国語を学習している日本人学生と中国語が出来る留学生を対象に合同で,日中,中日の翻訳の授業をしたことがある。日本語の授業を担当させられていた時分,中国人の書いた作文を添削していて,気づいたいくつかの特徴のうち,特に不得意だと感じた文章表現の一つに,擬態語,擬声語の描写があった。
そこで,こういう類の語が沢山出てくる文章を教材に取り入れるべく,散々探した結果,最後に行き着いたのは漫画本であった。漫画は,臨場感や緊迫感を与えるために,噴出しの台詞以外にも,多くの「ハッ!」,「ドキ!」など,擬声語とも擬態語ともつかないようなものも含めて,音や感覚を表す語が多く使用されている。それも,小説等とは違ってかなり実生活に近い口語で話が展開されて行くので,日本語の実際の会話表現を学ぶには非常に有効な教材であった。近年では,日本の漫画が中国でも多く出版されているので,中国語から日本語への翻訳には,敢えて中国語版の漫画を用いて,中国語の象声詞が,日本語ではどういう表現になるのかということを学習してもらった。日本人の学生にとっても,日頃の教材ではあまり触れることのない中国語の音の表現を学ぶことには,新鮮な印象があったらしい。
逆に,日本語から中国語への翻訳教材では,群ようこの『ビーの話』という短編小説を選んだ。飼い猫ビーとの生活を通して,猫の行動や感情の起伏を描き出しているので,内容のほとんどが猫の描写に費やされている。そのため,驚くほど擬声語や擬態語が多く使われていることが,選択の決め手になった。この教材を中国語に訳している時に,一番説明に苦労したのが,ビーは,得物を狙うように歩を進めるシーンで「つーっと近づいていった。」という表現である。中国人には,「つー」という日本語が理解し難いらしい。具体的に動きを真似てみせて,状態を説明すると,それでは,「すー」とはどう違うのかと言う。不意をつかれて,「『つー』と近づくほうが,『能』の動きのように体の全体の動きがない滑らかに動くような印象がある。」と,言っては見たものの,確かに「すー」と近づく時もあまり体が動いているような印象はない。また,「すーっと」の方が,動きがスムースで素早いようにも感じられるが,だからと言って,この場合の「つーっと」がもたついている感じもない。中国語のように動作の状況説明によって表現しなければならない場合は,「つーっ」と進んでも,「すーっ」と進んでも動き自体には,大差が無いように思われる。「つー」は「つっと」,「すー」は「すっと」という副詞からの派生表現であるが,『広辞苑』などのこれらの副詞の解説を駆使しても,留学生達のムズムズするような欲求不満を到底解決するものではなかった。
実に,日本語の擬声語,擬態語は難しい。その上,この手の語を並べることで,意思疎通が可能となる不思議な力を持っている。ある雪の残る日,講義に遅刻して来た日本人の学生が,教室に入ってくるなり釈明を始めた。「正門のところで自転車でツルッとなっちゃって,フラッとしてる時に,車がバッと来たので,本当にガッと行きそうになって,ワーッとよけたらザーッって感じで,もう死ぬかと思いましたよ。」と慌てた感じでまくし立てた。学生たちは,口々に「危なーい」とか「あそこヤバイよなー」などと騒いでいる。教室にいた全員がまるで一緒に映画のワンシーンでも見るように同じ状況を脳裏に浮かべていたのではないかと思う。内心,私は,「なんだ?今の日本語は!」と眉を顰めつつ,一方では「日本語って凄い!?」と驚嘆してしまい,必死に頭の中でフィルムを巻き戻し,今の文章を頭に仕舞い込んだ。何が凄いって,状況説明の大半が,擬態語や擬声語で出来ているではないか。日本語はこうした表現が恐ろしく発達しており,事態や状況説明まで可能にする不思議な言葉である。「ツルッ,フラッ,バッ,ガッ,ワーッ,ザーッ」と並べるだけでも,妙なリアリティを持った状況が目に浮かんでくる。これを中国語に言い換えたら,全ての事件の起こった発生状況と動きをきちんと解説しなければならない筈だ。そのためには,まず,この「音」いや,「語」が,どういう事態に,どういう内容を表現しようとしているものなのか,きちんと理解している必要がある。例えば,この場合「フラッ」としたのは,「自転車のバランスを崩した」事を言うのであって,「目眩を起こした」のでも,「誘惑に負けて心を奪われた」わけでもない。確かに根底には均衡を失うという語義の共通点はあるが,コンテクストによって,瞬時にどんな事態の表現なのかを捉えなければならない。
中国語は,漢字が表音文字ではないので,こうした音をストレートに表す表現方法を活用することには,余り向いていないのかもしれない。反対に日本語では,聴覚に拠って表現する擬声語の他に,様々な感覚に拠って状態を音声化する擬態語を用いた表現が非常に発達しており,こうした音が象徴する意味で,事態や状況まで説明することが可能である。ただし,重要なのはそこに共通認識があって初めて意思の疎通が可能となることである。
小学館の『日中辞典』第1版には,「中国語には擬声語は比較的多く認められるが,擬態語は日本語ほど豊ではない」として,沢山の擬声語による音の用例が載っている。なるほど,この音は中国語ではこういう音になるのかと,見ているだけでも面白い。ただ,実際に学生の翻訳を見ていると,その音の表現は,実際に日本語ではどういうシチュエーションで用いられるのかという判断が難しいようだ。その辺りが,辞書の解釈だけでは限界があるところのようである。書物を通して語法や語彙を学んでも,なかなか感覚として捉えることのできない,音という感覚に訴える語,まさに語感が物を言う世界の話である。
現在は,この講義は開設されていないが,私がこれまで行ってきたものの中で,飛び抜けて留学生の評判が良く,根強い再開の要望があったのは,この講義であった。
国際粤語学会に参加して
去年の暮れ,香港城市大学で開催された第13回国際粤方言学会に参加して来た。この学会は一般に広東語として知られる広州方言ほか粤方言について専ら討議する学会で,1987年に第1回が開催されて以降,昨年末で13回目というのは,中国語学の個別分野の学会としては開催数がかなり多いほうである。
参加者は広東省や香港の研究者が多いが,日本からもいつも数名の研究者が参加している。私自身はこれが5回目の参加である。必ずしもレベルが高い研究発表ばかりではないが,広東語の文法を専門にする私にとっては,国内ではあまり得られない意見や情報交換ができる貴重な機会である。
大会は広州,香港,澳門の教育機関や言語学会が回り持ちで主催する。主催機関が香港の回は大会の運営が一番しっかりしていて,きちんと論文集も出される。
その一方,澳門が主催する回はだいたい運営がおおざっぱである。第6回目(1997年)の澳門で開催された粤方言学会は私にとって初めて参加した海外の学会であったが,なかなか印象深かった。このときは台風の影響で澳門に渡れず欠席した研究者が多かったこともあり参加者はあまり多くなかったのだが,会場はホテルの宴会場のようなフロアを借り切ったもので,その中でテーブルごとに分かれて分科会が行われた。上下のフロアは改装工事でやかましく,ついたてで仕切られたすぐ横で一般客がマージャンをしていた。
その後開催された大会は主催機関によって参加するかどうか決めていたが,香港で開催された回は全て参加している。最近は広州,澳門が主催の時は,従来の開催場所では新鮮味がなくなってきたせいか,広東省の中山や広西チワン族自治区の南寧といった地方都市で開催される。年末休み少し前の学期中の時期で,しかも北海道在住の私としては非常に行きづらくなった。
この学会では,各発表が何語(何方言)でなされるかという点も興味深いポイントの一つである。広東語が話せても大陸の研究者は普通話,香港の研究者は広東語か英語が多いが最近は(上手ではない人も多いが)普通話を使う割合が増えてきた。ハンドアウトは英語で準備しながらも,当日聴衆の言語環境や雰囲気を見て口頭発表は広東語にスイッチというのも数名あった。
発表内容は多様化してきているが,歴史的研究がここ数年増えているような印象だ。標準広東語以外の粤方言の文法に関する報告も興味深い。印象に残ったのは2006年に大会が開催された南寧で話される粤語に関するものである。比較構文の例文として“點芥菜捱霜打過甜過過點盟捱霜打過。”というのがあったが,「霜に打たれたカラシナは霜に打たれていないカラシナより甘い」という意味だそうだ。添えられた普通話訳から判断するに,“點”は「ちょっと」の量を表す量詞,“捱”は受身を表す前置詞,“盟”は否定副詞だろう。標準広東語でも名詞の前に量詞を置いて特定性を表したり,比較を[形容詞+“過”+比較対象(Y)]「Yより〜だ」で表したりする。しかし,連体修飾節が被修飾語の後ろに置かれる点はおよそ中国語らしくない語順で,普通話の訳文がなければさすがに意味が取れない。ちなみにここの方言は動詞+結果補語も目的語がある場合は動詞+目的語+結果補語(大まかな例で示すと“打花瓶爛”「花瓶を打ち壊す」)のような語順を取るということで,チワン語との言語接触の影響を示唆する調査報告が今年の別の学会でなされている。
なお,次回の国際粤語学会は今年年末に桂林で,周辺方言に関する学術会議と併せて開催されるとのことである。
父 望月八十吉の想い出
父の洗礼名は,ヨハネという。聖書の「ヨハネによる福音書」は,「初めに言があった」から始まるからである。晩年,父は「自分の人生は,言語研究に捧げた」というのが口癖だった。80歳を機に母校のそばに家を建てた際,自宅をLingua House(言語の家)と名づけ,一階を英会話・中国語教室にして,83歳まで地域の人びとに中国語を教えていた。そして不思議なことに,Lingua Houseの創立五周年の日の早朝,召天していった。
父の書斎から,NHKテレビ中国語講座の台本が二冊出てきた。大阪から東京に移る際,蔵書や資料の4分の3は古い家とともに消えていったが,この二冊だけは,思い出深かったものなのだろう,東京まで持ってきていたのである。そのうちの一冊の表紙には,「1970年1月9日(金)放送,1969年12月22日(月)収録,『包餃子』」と,新年を祝う内容の番組タイトルがガリ版で印刷され,下に「〜NHK京都〜」と記されている。NHKテレビ中国語講座は,1969年度より始まり,大阪外国語大学相浦杲教授と父が初代講師を務めた。なぜ東京ではなく,京都という地方局で中国語講座を製作していたのかについて,父の弁によれば,当時は日中国交正常化以前だったので,NHK東京で中国語講座を製作することがはばかられ,それで京都で製作したのだ,ということであった。
台本二冊とともに綴じられているのは,1970年12月23日(水)の朝日新聞夕刊である。「NHKの中国語講座,『白毛女』が“草原の歌”とは」「地名も架空に書き換え」「現代中国学会『不当な規制』と重視」という見出しの記事がある。1970年10・11月の中国語講座テキストに,「八大人胡同」「南小街」「東安市場」といった実在の地名や,「白毛女」というバレエ・京劇の作品名を講師が使ったところ,NHKから架空の名前に置き換えるよう要求があったということを報じている。中華人民共和国と正式な国交を未だ持たなかった38年前の今日の朝日新聞に,NHK教育局次長の言葉として以下のような談話が掲載されている。「複雑な国際情勢があり,番組を視聴する人もさまざな思想を持っている。純粋な語学番組が無用なトラブルに巻込まれたり,一方から誤解を招くことのないよう一部の地名を替えていただいた。実在でも架空でも学習効果には影響ないのではないか。」
この架空の地名への書き換え問題に反発して,二人の初代講師は,いずれも出演拒否をしたらしい。当時私は小学生だったが,母から,「東京からNHKの一番偉い人がいらっしゃっているから,お茶を持っていきなさい」と言われて,来客にお茶を持っていった時のことを鮮明に記憶している。そのゆったりとしたおじ様が,栗まんじゅうのたくさん入った菓子折りを「お嬢ちゃん,どうぞ」と手渡してくださり,大喜びしていた光景が浮かんでくる。今でも,栗まんじゅうを見かけるたびに,日中国交正常化直前の,この出来事を思い出す。
父の書斎でふと手にとった父の古い論文に,「私の最終的な研究目標は,中国語の動詞の研究である」と前書きに書いてあるのを発見した。中国語音韻学のH先生は,父について「衒いのない人でした」と,言語学のK先生は,「やりたいことをやり尽くされて旅立っていかれた」という追悼のお言葉を私に送ってくださった。情熱的に言語研究に没頭した父にひきかえ,私は,到底学究肌とはいえない。けれども,自分自身の残り時間ももはやあまり多くはないと思うと,せめて残り時間を中国語の動詞研究に捧げることができたら,と思う。
第58回全国大会を終えて
第58回全国大会が終わって,約1ヶ月になる。バタバタと準備に追われた中での開催だったが,参加者は400名を越えて,学会会員全体でいうと,約3人に1人が会場である京都外大に足を運んだことになる。盛会といってもよい,多数の会員の参加を得ることができて,正直に言って,単純に“涙が出るほど嬉しい”。今回大会の開催に直接・間接にご協力いただいた学会正副会長・事務局・理事会・評議会・前回担当校等の各位に,担当校メンバーの一員として衷心より謝意を表したい。有難うございました。
大会1日目の2つの講演とシンポジュームには,多くの観客を得ることができた。広い講堂の席の多くが常に占められ,質疑応答も活発に交わされて,大いに盛り上がったものになった。また,2日目の研究発表分科会では,80本を越える発表があり,活発な意見の交換が行われた。今回大会の特徴かどうかは分からないが,研究発表の内,海外会員からのエントリーが10本を越えた。もはや本学会が,単に国内だけの範疇のものではない,という印象を強くした。
担当校としては,当然ながら,全ての場面に注意を払ったが,その中でもとりわけ力を注いだのが,分科会の時間と場所のアレンジである。同一分野のテーマが重ならないように分科会を分けてプログラムを組み,会場間の移動の便を考えて,エレベーターを中心に場所を配置するなど,工夫した点は多い。これは,過去の大会の例を横目で見ながら,今回大会の独自色を,表立って見えない所に配した例だが,もう一方の,前面に押し出した“個性”に関しては,参会された会員のご判断の通り………。
……このように,大会を終えると,色んな考えが頭の中にいっぺんに湧き上がってきて,うまくまとまらない。だからというわけではないが,ここで少し脈絡を離れて,担当校の一員としての心情を語ることを許していただきたい。
58回大会の時,不惑もだいぶ過ぎ,知命の直前のこの頃,過去と折り合いをつけることの大切さを,なんとなく感じるようになってきた。人間は思い出に寄りかかってしか生きていけない,などとうそぶく自分に,お前も大人になったな,と声を掛けるようなゆとりが,育ち始めたのである。
自分の内面の変化の一方で,日常は煩雑さで沸き立っている。理想とは程遠いところで,自分の考えとは全く離れた形で決定された他人の意思に振り回される日常が,当たり前のものとして,私たちの上に覆いかぶさってくる。
昔は,こんな毎日が,この年齢の日々に満ちているとは,想像もしなかった。いつ終わるか分からない雑用の連続の中に埋没しそうな向上心,中国語だけを考えることが許されない毎日への焦り,そして物事をちょっとだけ達成したあとの安堵感,プラス・マイナスの感情が入り混じって,私たちの心の今は,塗り固められていく。
今が昔になるように,今回大会も過去のものになり,思い出となる。何年か後には,「あの京都外大での大会の時には…」という形で会員の口に上るようになるだろう。だが,これこそが私たち担当校メンバーがいちばん望んでいることなのかもしれない。自分たちの仕事が,他者の中で思い出に姿を変えていくのを見るのは,心地よいものである。
中国語はどんなことばなのか?
中国語はどんな特徴を持つのか,という古くて新しい問いについて,これまで色々な意見に接してきた。ところが,「それらを総合すると〜となる」という総括は非常に難しい。「中国語は〜」という説明の中に,いくつもの相異なる見解が見られるからだ。
- (1)a 中国語は特殊な言語である。
- - b 中国語にも世界の他の言語と共通する現象が多数存在する。
- (2)a 中国語は漢字を使うので,漢字一つ一つの意味が非常に大切だ。
- - b 中国語は漢字を使うが,二つ以上続くと一つ一つの漢字の意味の和にならないので,漢字一つ一つの意味にとらわれてはならない。
- (3)a 中国語は漢字一つ一つを単位とした単音節語である。
- - b 現代中国語は二音節語が圧倒的に多い。
- (4)a 中国語で難しいのは発音で,それに比べ文法は学びやすい。
- - b 中国語学習者はしばしば「文法上正しくても習慣上中国人は使わない」という表現を使ってしまう。
- - c中国語の文法は決して易しくない。
- (5)a 中国語には明確な語形変化が存在しないため,語順が重要で,語順によって表す意味が異なる。
- - b 中国語では後ろに置くべき成分を前に出すなどの語順変化が頻繁に起こる。
- (6)a 中国語の語順は描こうとする事態が発生した時間の順を基本とする。
- - b 中国語ではしばしば強調のために語順を変化させる。
- - c 中国語の基本語順は英語と同じでSVOである。
- (7)a 中国語の各単語には品詞の区別が有り,品詞によって文法的性質が異なる。
- - b 中国語の単語は文脈によって品詞の転化,特に名詞化・動詞化が頻繁に発生し,それらは必ずしも辞書には記されていない。
- (8) a中国語には構文上の規則が多数存在する。
- - b 中国語の文法は突き詰めれば一つ一つの単語の用法である。
これらの見解にはそれぞれ背景となる事実があり,必ずしもどれが正しくどれが誤りだと断ずることはできない。また,このような相異なる見解が共存することを事実として受け入れ,そもそも中国語はそういう多面性を持った言語なのだと理解していくことも必要なのかもしれない。特に,こうした諸説の有効性を一つ一つ検証していくことが中国語学を志す人間のとるべき態度なのだ,と言われれば,ひれ伏すしかない。ただ一方で,こうした「総論」における立場の差異が,中国語学習や教育の現場で様々な行き違いを生んでいることも確かであろう。
中国語をどのような特徴を持った言語だと捉えるかは,時として,中国語の語学力とはどういうものなのか,中国語学習をどのように組み立てていくのか,といった現実問題と関連してくる。「こういう項目は日本語を母語とする人には解りやすい,解りにくい」という判断を下す際も,「総論」における中国語観が大きく影響する。中国語に取り組む際,漢字を出発点にするか,基本語順を出発点にするか,構文規則を出発点にするか,個々の語の用法を出発点にするか,といった立場の違いは,学習・教育現場では相当増幅されているのではないか。
私はここで,何か結論めいた提案ができるとは思えないし,そのような大それた目標を持つこと自体分不相応だと考えている。中国語研究の場では,このような立場の違いが新たな知見につながる可能性もあるだろう。しかし一方,学習・教育現場での実用を前提に,こうした「総論」について,様々な意見を自由に交換できる場がどこかに有ればよいとも思う。学習者の多様化・学習目的の多様化・教材の多様化という現実を前に,「『総論』における中国語観も多様でよい」と主張し続けることに,どことなく不安を感じるからである。
急速な社会変化の中で,中国語自身にも新たな表現が多数生まれている。「有事儿ni打我的手机。」は「用事があったら私の携帯に掛けてください。」と解釈され,「用事があったら私の携帯を使ってください。」という解釈を排除する。これを「総論」ではどう説明すればよいのだろうか?やはり,「総論」は古くて新しい問題である。
“写不出来”“念不出来”なことば
先日,映画『頭文字D』の香港版DVD(出品:寰亞,銀都機構)を頂いた。日本版(提供:GAGA/avex)の音声は日本語と広東語で,普通話はなく,主題歌もavexのAAAだ。頂いた香港版は,広東語と普通話。主題歌も主演の周杰倫が普通話で歌っている。原作は日本のマンガで,学生に人気が高い。
「これは授業で使える」と喜んで,字幕を参考にしながらせりふを書き取り始めた。字幕が多少せりふと一致しないのは仕方ない。大抵は字幕を頼りに実際のせりふが書き取れるのだが,どうしても聞き取れない個所が出てきた。
チャップマン・トウ演じる高校中退の青年が,友人の父親を訪ね,昔のようにまたレースに出てくれと頼むが,全く相手にしてもらえない。そこで,「もしあんたが自分の父親だったら,とっくに殴っているところだ」と捨てぜりふを言う場面。この後半部分の字幕は“…,我早就教訓ni3”だが,何度聞いても“我早就bie2 ni3 了!”に聞こえる。工具書類で調べても“bie2”または“bie3”がどういう字なのか,字幕の“教訓”と意味が一致しているのかも,音からだけでは分からない。
そもそも,動詞の“教訓”は≪現代漢語詞典≫では「教え諭す」のみ。『中日大辞典』には「こらしめる」「しかる」の釈義もあるが,私は日本語の「教訓」のイメージから,「言葉で」諭したりこらしめたりする意だと思っていた。ところが,この部分の日本語吹き替えは「俺の親父だったらぶん殴ってるぞ」,広東語でも“打”の音が聞こえる。あれこれ調べて,『東方中国語辞典』に「<口>殴る,たたく」とあるのを見つけ,“教訓”に「殴る」の意があることを知ったのだった。
北京出身の先生に尋ねると,この“教訓”はやはり「教育してやる→酷い目に遭わせる/殴る」の意で,せりふの音声は「殴る」という意の“bie3”,字は多分「へこむ/ぺちゃんこになる」の意もある病垂れの字だろう,とのこと。上海出身の先生に尋ねると,後のnと重なって聞こえにくいが,音は“bian3”で字は“扁”,やはり「殴る」の意だそうだ。一般の辞書では“扁”は「平たい/ぺちゃんこだ」の形容詞とされる。北京の先生に再確認したところ,“bie3”も“bian3”も音を聞いて「殴る」の意と分かるが,字は「口語だから自信がない」という。結局,話し言葉は文字表記しにくいものもあるし,外国人には難しいことを再確認するにとどまり,授業でこのシーンを使うのは諦めた。
さて,『頭文字D』は「かしらもじ…」ではなく「イニシャル・ディー」と読まねばならない。AAAは「トリプル・エー」だ。このように固有名詞は命名者が設定した読み方が正解とされ,勝手に読みかえられない。
では,中国語の≪頭文字D≫はどう読むのだろうか。香港版では題の上にルビのように“飄移族”と書かれている。漢字をそのまま発音せず,≪頭文字D≫と書いて“piao1yi2zu2”(drift族の意)と読ませるのか。それとも原題同様“Initial D”だろうか。題名が発音されている映像を探したが,なかなか見つからず,やっと1本だけ宣伝用インタビュー集でナレーターの音声が確認できた。何のことはない。そのまま“Tou2wen2zi4 D”だった。ただ,この読み方が正しいとわかったが,一般の人が皆こう呼ぶとも限らない。
同様に,教科書に出てきて読み方に困ったのが“7-11便利店”(セブン-イレブン)だ。日経『企業・ブランド名辞典』莫邦富・呉梅編にピンインが付いているはず…と見ると,残念ながら「7-11」部分にはない。中国人の先生に伺うと,「多分」の前置き付きで,“Qi1-shi2yi1”“Qi1 dao4 shi2yi1”“Qi1 yao1 yao1”,「そのまま“Seven-Eleven”」や「単に“便利店”のみ言う」など,実に様々な答が返って来る。北京に行ったら,正式な読み方と,現地の人が常用する呼び方を調べて来ようと思いながら,なかなか時間が取れず未解決のままになっている。どなたかご存知の方,お教え頂けると幸いなのだが。
忘れられた「唐音唱詩」の伝統
古来,日本人は,漢文を訓読で読んできた。音声の美をたっとぶ漢詩さえ,訓読で吟じた。
しかし例外もあった。漢訳仏典を読経するときは,日本漢字音で音読した。
もう一つの例外は「唐音唱詩」である。中国伝来の歌曲に乗せて,漢詩や白話文の歌詞を歌う場合は,日本人も,同時代の中国語の発音を模した「唐音」で歌った。
江戸時代から明治にかけては,プロの漢学者でない普通の日本人も,唐音唱詩を楽しんだ。「詩吟」のときは訓読吟詠で,「唱詩」のときは唐音唱詩で,と,二つのチャンネルを使い分けていたのだ。
王維の七言絶句「送元二使安西」の起句,「渭城朝雨 [水邑]軽塵。…」([水邑]は,サンズイの右横に「邑」という漢字)を例にとると,訓読吟詠では,独特の節回しをつけて,
「イジョウのチョウウ ケイジンをうるおし…」
と朗詠する。これを唐音唱詩で歌うときは,日本人も,
「オイ ジン チヤウ イー イー キン ヂン。…」
などと唐音で発音した。
唐音は,呉音や漢音と違い,カナ表記が固定化しなかった。例えば「渭城」のフリガナも,現存の楽譜本を見ると,「ヲイ ジン」「オイ ジン」「イ ジン」など,まちまちである。
江戸期の日本人が歌った中国伝来の歌曲には,明末清初の亡命僧・東皐心越が伝えた琴曲や,長崎の魏君山が広めた明楽,来舶唐人が伝えた清楽など,さまざまな種類があった。昔の日本人が「渭城朝雨 [水邑]軽塵。…」を歌うときのメロディーは,東皐心越の琴曲なら,
「ミードーソーミー,ラーソーソー…」
魏氏の明楽なら,
「レーレーレーレー,ドーミレドラー…」,
傅士然が伝えた「唐詩五七絶譜」なら,
「レーミーソーラー,ラードラソー…」
と,様々であった。
(これらのメロディーを耳で聴いてみたいかたは,筆者のHPの中の「漢詩を歌う」
http://www.geocities.jp/cato1963/kansiwoutau.html
というページをどうぞ。中国語や漢文の授業でもすぐに使える「カラオケ」用音源を,MIDIでアップしてあります)。
昔の中国人は西洋人と違い,自分が聴き慣れた曲を,あまり楽譜に書かなかった。
上記の中国伝来のメロディーも,中国本土の楽譜資料には残っていない。江戸時代の日本人が記録した中国伝来音楽の楽譜は,現代中国の研究者が明清期の中国音楽を復元するうえでも,貴重な一次資料となっている。
さて,漢詩を訓読して読み下すと,原詩を音読したときのリズムとずれる。
詩吟は「吟詠」であり,節回しのリズムや音長を適当に伸ばしてよいので,訓読することによって生じる原詩のリズムとのズレも,適当にごまかせる。
これに対して,漢詩を楽曲として歌う「唱詩」の場合,訓読した読み下し文を原曲のメロディーに乗せて歌おうとすると,「字余り」になってしまい,歌えない。
こういうわけで,明治までの日本人は,「詩吟」は訓読で,「唱詩」は唐音直読で,と,二つのチャンネルを使い分けていた。
現代の日本で,英語を話せない人も「ハッピーバースデー,トゥー,ユー」くらいは歌える。
それと同様に,明治までの日本人は,中国語は話せなくても,中国伝来の歌曲である「九連環」とか「算命曲」,あるいは「紗窓」くらいは知っていた。
このうち「紗窓」は,,唐の七言絶句をそのまま歌詞とするもので,筆者のHPの中の,
http://www.geocities.jp/cato1963/singaku-07.html
にも載せておいたが,日本でもアコーディオンの練習曲として採られたり,大正時代の街頭演歌になったりするほど有名だった。
残念ながら,日本における唐音唱詩の伝統は,1894年の日清戦争の勃発によって終わる。開戦後「文明国民たる日本人は,東洋精神の精華である漢詩漢文を,日本語で訓読すべきだ。野蛮で遅れた敵国語で発音するのはおかしい」という偏見が,一挙に広まったからである。
以後,日本では「訓読吟詠」だけが残り,今日に至っている。
ただ,現在でも,東京の湯島聖堂でのコンサートや,長崎の明清楽保存会の演奏会などで,江戸時代さながらの唐音唱詩の実演を聞くことができる。また,明治までに刊行された唐音唱詩関係の楽譜本は,かなりの量が現存している。webcatで検索すると,日本の各大学の図書館にも,けっこう収蔵されている。
「唐音唱詩」の歌は,メロディーが単純なものが多い。カラオケがうまい人なら,簡単に歌える。
また,メロディーも歌詞も,著作権フリーである。
筆者のHPには,原楽譜本の写真や,五線譜,カラオケ音源などをアップしてある。
ご興味のあるかたは,歌ってみてはいかがだろうか?
「閑人」の正体
中国で何か手続をしなければならなくなったとき,窓口の効率の悪さやそのことがもたらす長い行列にうんざりしたことはないだろうか。しかも,そういうときにふと垣間見えた窓口の奥,事務室の一角に,ひまそうに雑誌のページをめくり茶をすすっている人間がいるのを眼にしたことも一度や二度ではないはずだ。休憩時間なのかもしれないが,こんなに混雑しているのだから,少しくらい融通して手伝ったらよかろうに,と,そのたびにわたしは思ってきた。自分がその「閑人」になるまでは。
ある年の春節明け,わたしは学生を引率して杭州市のある大学に行った。宿舎に着き学生を部屋に落ち着けた翌日,午前中に担当者のいる事務室に赴いた。挨拶のためと,上海までの出迎えの車代を支払うためである。しかし,時期が時期だけに,事務室では各国からの留学生が列をなし,様々な手続,要求,支払い,などのために自分の順番を待っていた。列に並んだ留学生の多くはほとんど中国語が話せず,それでも単身やってきて,英語で各自の目的を達していく。中には,さっきそこで買ってきた携帯電話の画面表示を中国語から英語に切り替えてくれという者までいて,その堂々たる要求ぶりに感心した。反面,わが学生の過保護ぶりを思いつつ,行列の途切れたすきに担当のW先生に声をかける。
型通りの挨拶の最中にも,ひっきりなしに留学生が訪れ,そのたびに我々の会話は中断される。すぐには片付かないと判断したか,W先生は応対の合間に茶をいれてくれ,事務室の奥の椅子をすすめてくれた。所在なく手近の雑誌を手に取りページをめくる。すぐに気がついた。これこそまさにわたしがこれまで怨嗟の対象としてきた「閑人(ひまじん)」ではないか。そうか,こういうことだったのか。事務室前は相変わらずの混雑である。留学生たちの視線を首筋に感じるが,「閑人(部外者)」のわたしにはどうしようもない。そのまま時間は過ぎ,やっと昼休み。潮が引いたように静まり返った事務室で,車代を払い領収書を書いてもらい,そそくさと引き上げてきた。
思わぬところで「閑人」の正体を知ることになったわけだが,最後にひとつ,かの留学生の携帯電話の画面表示はわたしが切り替えたことをつけ加えておく。
会話練習
学期末に授業アンケートというものがある。その自由記載欄に授業の感想,(後期の授業への)要望を書いてもらうと,どのクラスでもほぼ確実に「あまり当てないでほしい」という願いとともに,「もっと会話をやりたい」という意見が散見される。前者の方は気にしないとして,後者については「会話は中身が重要なのに」などと思いつつも,これも私が普段文法偏重の授業を行っていることへの反動と反省して,以降はできるだけ取り入れるように心掛ける。
教室に中国人留学生を連れて行く。クラスの雰囲気がいつもと変わる。本文を改造した会話練習は皆無難にこなす。が,事前に準備しておくことを課題として課していた自己紹介を交えた自然会話の段になると,大抵名前,国籍,年齢,趣味,家族構成プラスアルファで沈黙が訪れる。留学生には既習の文をあらかじめ伝えておいて,それらを組み合わせて使ってもらうのだが,なぜか普段私と受講生の間で行われる会話のようにスムーズにはいかない。学生は救いを求めてただひたすら(そこにはいないことになっているはずの)私を見つめる。
従来は文法中心の授業を行っているものの,会話にも役に立つようにと私なりに配慮は払ってきたつもりである。例えば,習ったばかりの文型を用いて即興で口頭作文をさせたり,思い出したように突然中国語で質問をしたりしている(時間,日にちほか)。また会話練習においては沈黙は金ではないので,「詰まったときは“Ni ne?”[あなたは(どう)?]で相手に振ればとりあえず会話は続く」,「日本語の『そうですか。』『えーっと,あのー』のような応答・つなぎに相当する中国語が自然に出てくるように」などと教えてはいたのだが……。こちらとしては普段の「細切れの文」を片っ端から使って,不自然な流れになってもいいからとにかく「発話」してほしいのだが,これがなかなか思惑通りにはいかない。
そもそもそれほど親しくない者であれば,同じ日本人同士であっても会話は弾まない。初対面のネイティヴ相手で緊張するというのなら慣れている私相手でも構わないものの,私の場合上記のようにじっと見つめられるのは恥ずかしいので,姿の見えない電話というシチュエーションでやろうと提案すると(助けを求める術がなくなるという危機感を即座に察知して)強硬に反対される。会話がうまくなりたいのならとにかく声を出すことだと思う。通常の授業で用いるテキストを自分で音読する際にも,かつてシュリーマンがロシア語を習得する際に用いた手段のように,中国語を解さない家族・友人を「犠牲」にしてひたすら聞いてもらう方法だって考えられなくはない。
最後に,私が留学中の体験として学生に紹介する話がある。これは以前共通教育関係の事例集(『豊かな教養教育を目指して』平成11年度)にも書いた内容であるが,それが学内向けのものであったため,今回その中の一部分を加筆した上で再度記す。
留学先(瀋陽)の街の中心部にある広場が,毎週末になると外国語サロンと化す。行ってみると,そこでは小学生から大学生,社会人までもが年齢を超えて,小グループ単位で英語で会話をしていた(日本語は二割程度だろうか)。お互い知らない者同士がである。全体を仕切る者はいない。決して流暢とはいえない者も少なくなかったが,何しろ皆我先に話そうと躍起になっていた。会話が詰まったときに傍で指導しているのは,留学経験者と思われる。日本人的な発想であれば「どうせ同じ国の者同士が外国語で話しても……」というのが関の山だろう。たまに外国人が来るとその周りが黒山の人だかりとなる。なぜこのような活動があるのか参加者に聞いてみた。曰く「自分たちはあなたたちと違って自由に外国に行けない。しかし,もしそういう機会が巡ってきたら絶対にそれを逃さないために常日頃から準備しておくんだ」。我々もそれを真似ようなどと言いたいのではない。ただ,そのような現実があったということを知ってもらいたい。1996年当時の話である。
母校
私は,大学院を東京都立大学(現,首都大学東京)で学んだが,学部は奈良県の天理大学が母校である。2年前ご縁があって,その天理大学に転任した。
前任の愛知大学現代中国学部(現中)には,1997年の設立以来,9年間在職した。現中は文学部や外国語学部といった従来の枠組みにとらわれず,現代中国全般を教育・研究対象とした学部である。その設立に当たって現代中国に関係するさまざまな分野の研究者が日本全国から集められた。私は現代中国語文法の専門家として,授業以外では主として中国語カリキュラムの構築とテキスト作成に従事し,2回のカリキュラム改革を経て,現行のカリキュラムを作り上げた。道なき道を歩んだ9年間だった。苦労も多かったが,各分野の教員が知恵と力を出し合って作り上げたその特色ある教育プログラムが認められ,2003年には特色GPに採択された。
私が天理大学に在籍していた頃は,「語学の天理」,「発音の天理」といった言葉をよく耳にした。当時は,私の先輩,同輩,後輩が朝日新聞社主催「中国語弁論大会」で4年連続して1位になり,「天理の黄金時代」と言われていた。私も日本一の先輩に憧れて頑張った一人であった。愛知大学に奉職した後も,天理の恩師や先輩から授けられた技を学生に伝授しようと,1期生から中国語スピーチの個人指導を始めた。自分がスピーチをするのと指導するのとでは勝手が違い,最初は試行錯誤の連続だったが,学生たちは期待以上の頑張りを見せてくれた。1999年の朝日「中国語弁論大会」審査員奨励賞受賞を皮切りに,2000年には同3位,2002年には日中友好協会主催「全日本中国語スピーチコンテスト(一般部門)」で1位,2003年に同2位,2004年には中国国家漢弁主催「漢語橋」東京エリア予選で1位と,毎年のように入賞を果たし,新学部「現中」の存在感をアピールすることができた。
天理大学時代,私が在籍していたのは外国語学部だったが,今は国際文化学部と名称が変わっている。今の学部では,外国語の技術だけでなく,当該言語が話される地域の歴史や文化も学べるというのが謳い文句である。しかし,外国語だけに注目すると,必修語学科目の単位数が42単位から28単位に激減している。おまけに,学生は最初から中国語を学びたいと思って入学しても,最初の半年間言語コース選択の猶予があるため,実際に学び始めるのは1年生の後期からになる。これでは,入学と同時に志望言語を学べる外大や外国語学部に太刀打ちできるわけがない。近年スピーチコンテスト優勝のニュースをとんと耳にしなくなった最大の原因はここにあるに違いない。1年生後期開始と28単位という大原則はすぐには変えようがないが,外国語学部系の大学と戦うには何か大きな変革が必要だ。運用の範囲内で,コマ数は少なくても効果の上がるカリキュラムに組み直せないものか?そう思い至るや,コース主任に,中国語カリキュラムの整理を願い出ていた。
以来,時間があったら科目表と睨めっこの日々が続いた。まずは,カリキュラム修了時の具体的な最終到達目標を掲げ,その目標を達成するために,従来よりも科目間の役割分担とセメスターごとの段階性を徹底したカリキュラムに組み直した。中国語科目は各3クラスあるので,専任教員だけで全てのコマを担当することはできず,多くのコマを非常勤の先生方の手にゆだねざるを得ない。しかし,1年生の授業だけは全科目全クラスを専任教員が担当することにし,さらに1年生から3年生までの全科目を2科目1セットにして,同一教員が同一クラスを週2回担当するようにした。そうすれば一人の教員が責任を持ってより深く教えられるからだ。役割分担の明確化により,科目によっては市販の総合的テキストを使えなくなったので,専任教員が科目内容にぴったり合ったテキストを自作することになった。2年生以降は非常勤が入ってくるので,科目担当コーディネーターを置き,専任が非常勤の授業をコントロールしたり,専任と非常勤が相談しながら授業メソッドを開発したりできるシステムを作った。
恩師,同僚の理解と協力のお陰で,新しいカリキュラムは短期間で形が出来上がった。しかし,科目担当者に自分がこの体系においてどのような役割を担っているかを理解してもらえないと,役割分担の徹底を実現できない。非常勤を含めた担当者一人ひとりにそれを理解してもらうのは大変だったが,実際に新しいカリキュラムが動き出して見ると,効果は歴然としていた。先生方から,学生のやる気が出てきて,以前よりも教えやすくなったというお言葉を頂戴した。
カリキュラムの整理と同時に,私は中国語スピーチの個人指導も始めた。私の在学当時からある「漢会班」という会話サークルは消滅しかけていたが,着任した年の幹部学生が頑張ってくれたおかげで,久々にその「漢会班」主催の学内スピーチコンテストが行われた。努力すれば全国レベルになれるということを現役の学生たちに知らせるために,学内コンテストで優勝した学生を徹底的に鍛えることにした。短期間の指導だったが,その学生は,日中友好協会主催「全日本中国語スピーチコンテスト(基礎部門)」で3位に入賞し,それが伝統復活へのきっかけとなった。以来,「漢会班」に入る学生も大幅に増え,活動も活発になってきている。昨年は学内コンテストの1,2位入賞者が,「西日本学生中国語連盟燎原会暗誦・弁論大会(弁論の部)」でそれぞれ1位と3位に入賞した。本年5月,「漢語橋」の関西地区予選が行われ,天理大学の学生が2名出場した。健闘むなしく,入賞はできなかったが,天理の存在感は十分示せたと思う。
先にも述べたように,母校の現体制は,外国語学部系の大学と比較すると大きなハンディキャップを背負っている。そのような状況で伝統を復活させることは容易ではないだろうが,合理的な教育体制と学生の自主的なサークル活動がうまくかみ合えば,他大学とスピーチコンテストで優勝を競い合うことも夢ではないかもしれない。なぜ自分の時間を犠牲にしてまでそこまでやる必要があるのか,と思うこともあるが,それは自分を育ててくれた母校のため,自分を含めた卒業生の名誉のためだということだろう。
中国語に訳し分けにくいことば
語の意味というものには,単独でその語を眺めていても気がつかないが,複数の語を対比させるとそれぞれの語の意味の輪郭が際立ってくるものがある。以下,ある学会のワークショップで出た話題と一部重なるが,中国語への訳し分け方を聞かれてよくわからなかった例を挙げてみよう。
ある日本語の流暢な中国人が,日本語の「浮気」と「不倫」を中国語でどう訳し分ければよいのかと私に尋ねてきたことがある。「それは…」と言おうとして,お恥ずかしながら辞書を確認してみないと対応できず,日中辞典を引くと,「浮気」には“愛情不専一”“婚外恋”のような訳,「不倫」には“違背人倫”“作風不好”のような訳が並び,いずれにも“乱gao3男女関係”という同じ言い回しが出ていたりした。
どうも釈然としないが,そもそも日本語の「浮気」と「不倫」がどう違うのかを中国人に説明しようとして,うまく説明できないことに気が付いた。国語辞典では,例えば
【浮気】他の異性に心を移しやすいこと。特に,配偶者があるのに(軽い気持ちで)他の異性と情を通じること。
【不倫】道徳に反すること。特に,男女関係についていう。
(大修館書店『明鏡国語辞典』,該当する意味項目のみ掲載)
とあり,一見「浮気」の方だけ配偶者の存在についての記述があるので,「浮気」の方は配偶者がいることが前提となることが多く,「不倫」はそうではないのかという印象を与えるが,日本語ネイティブスピーカーの私(母語は広島方言で共通語は甚だ自信がないが)の語感からするとむしろ逆である。単なる恋人同士の片方が他の独身者と関係を持つことは浮気であって不倫とは言わないと思う。それを「不倫している」と言ったら,相手は必ず妻子持ち(あるいは夫がいる身)で…と,どろどろした話になると思う。
また,「ストレス」と「プレッシャー」はどうだろう。これも,ある中国人が日本語の意味の違いがわからないと言っていた。彼に言わせると両方とも中国語では“圧力”だという。
日本語の「ストレス」と「プレッシャー」は違うじゃない…と説明しかけて,やはりすぐにはうまく説明できず,国語辞典を引いた。
【ストレス】物理的・精神的な刺激(ストレッサー)によって引き起こされる生体機能のひずみ。また,それに対する生体の防衛反応。▼一般には,ストレッサーとなる精神的・肉体的な負担をいう。
【プレッシャー】圧力。特に,精神的な重圧。
(出典同上)
どうもそれぞれの語の意味の解説には確かになっていると思うが,では両者の違いは何かということについては,これだけでは相変わらずよくわからない。私の語感では,両者の違いは,
ストレス:長期的で与える影響が大きいもの。受ける側にとってはマイナスとなるもの。
プレッシャー:一時的で与える影響は比較的軽微。受ける側にとってプラスになる場合もある。
というあたりが違いのような気がする。ストレスを受けては病気になってしまいかねないが,適度なプレッシャーはそれをバネにしてプラスに転じさせることができる場合もあるだろう。
客家の三合院
3月上旬に台湾に行ってきた。3年前に長男を出産して以来久々の台湾である。
私は99年から台湾の高雄縣美濃鎮で話されている客家語を調べている。この客家語は広東省の梅県と同じ方言グループに属する。
台湾では「四縣(客家)話」と言われている方言のひとつだ。美濃の客家人の入植は清の乾隆帝の時代に始まったらしい。美濃鎮は人口約4万5千人,9割が客家人であると聞いている。
美濃に到着し,いつも居候させてもらっていた家を訪ねる。亡くなった奥さんが日本人だったという鍾さんは,90歳くらいだと思うがお元気そうで安心した。友達を通じて鍾さんの娘さんと知り合い,以来調査のたびにこの家にお世話になっている。普段一緒に生活している家族はほかに鍾さんの孫娘二人で女ばかり,毎日にぎやかだ。インフォーマントも良い方なのだが,元小学校の先生であるため「規範的な客家語」が出てきがちだ。そのため鍾さん一家の使う自然な客家語を観察することで,インフォーマントとの対面調査のデータを補うことができる。しかし何よりもうれしいのは,家庭のぬくもりを与えてくれることである。
ところで,このお宅のもうひとつの魅力は,伝統的な三合院の建物だということだ。大陸では円楼が有名だが,美濃ではこの三合院をよく目にする。正面の部分を「正堂」という。正堂のそのまた真ん中には祖堂,祖先を祭る重要な場所だ。毎朝娘さんが供え物を備え,線香を焚いて礼拝する。鍾さんの長男の娘も出勤するときに必ず一礼している。掃除用のほうきも他の部屋とは別で,うっかり「祖堂専用ほうき」を使おうとして注意されたこともある。祖堂の上に掲げられた額には「潁堂川(潁川堂)」とある。インフォーマントによればそれぞれの姓の出身地を表しているそうだ。ちなみにインフォーマントも同じ鍾さんなので,やはり「潁川堂」である。
正堂に向かって右翼の建物は「上横屋」,鍾さんの亡くなられた長男さんの一家が住む。左側が「下横屋」で,鍾さんの娘さんとその娘たちの部屋だ。鍾さんの部屋は正堂にあり,祖堂のすぐ左の部屋である。長男一家と鍾さんたちは,もちろんお互いに行き来はあるのだが,食事等の生活はまったく別々で,客家式二世帯住宅といったところだ。食堂は正堂の脇にある部屋(廊仔)で,台所や裏口へとつながっている。なお,それぞれの部屋は前から出入りするのみで,お互いに独立しているので,裏にあるトイレや洗濯場にいくには必ず食堂を通らなければならない。
以前建て直しをするという話も聞いたが,赤レンガの美しい三合院がそのままだったのでうれしかった。この夏休みにはまた三合院の生活が始まる。
「閨房」から「大通り」へ
——日本の大学の教室とかけて何と解く?
——閨房と解く。
——その心は?
——当事者以外は居てはいけない場所。
Faculty Developmentの一環として教員同士で授業参観をするようにと大学当局から指示があり,私の授業にも見学に来られた方がいて大層緊張した。でもそんなことは言っていられない時代が来ているようだ。
アメリカの大学で起こったことは何年か後には日本に波及すると言われるが(FDもそう),アメリカの大学の教室は「閨房」どころか誰もが行き交う「大通り」になりつつある。YouTubeという動画投稿サイトがある。著作権侵害で物議を醸す一方で,これを教育に利用しようとする動きもあり,例えばUC Berkeleyが専用チャンネルを持っている。
http://jp.youtube.com/ucberkeley
200ほどの講義ビデオが公開されていて,黒板を背に立っている教員がずらりと並ぶ様子はなかなか壮観だ。
教育専門に特化したものとしては,アメリカの大学の講義などの音声や動画を無料で配信するiTunes Uというサービスがある。日本からでもStanfordなど20数大学が配信する音声や動画をダウンロードできる。
日本でも東京大学など,ポッドキャスト(ダウンロード可能な無料インターネット放送)を使って,公開講座を配信している大学がぼちぼち出てきた。ダウンロードしたものをデジタル音楽プレーヤーのiPodに転送すれば,電車の中でも大学の講義が視聴できる。
iTunes Uやポッドキャストの受信方法については,ポッドキャストのリンク集を含む簡単なWebサイトを作成したので,もしよろしければご参照いただきたい。
http://qingyuan.sakura.ne.jp/wiki/
インターネットで授業が見られるのなら,わざわざ大学まで来なくなるのでは?という考えもあるが,しかしアメリカではYouTubeやiTunes Uで公開された講義を見て,「この大学で学びたい」「この先生の講義を受けたい」と言って受験する学生が出てきていると聞く。学位を取得するという目的以外にも,CDやDVDが普及してもコンサートや映画館に自ら足を運ぶ人がいるように,二度と返っては来ない時間を学生と教員が同じ教室で共有するという「ライブの授業の魅力」というのは不滅なのではないだろうか。また,今までなかなか見られなかった人の授業をインターネットのおかげで時間や場所の制限なく見られる。私の同僚の数学の教員は,iTunes UでMITの数学の授業を見ていて,同じ項目でも日本とアメリカでは教え方が全く異なるため,自分の授業の改善に役立つのだそうだ。インターネットは誰もが行き交う「大通り」,人の授業を見るのはさておき,そこに自分の授業が公開されることにはやはり抵抗を感じる。教員にとってはなかなかたいへんと言うか,刺激的な時代が来ているようだが,一度開いた「閨房」のドアはもう閉まらないのではないかとも思う。
全国大会を終えて
10月27日,28日の二日間,琉球大学で第57回大会を開催した。開催時,琉球大学の中国語学関連者は,専任教員2人,院生ゼロ,学部生各学年2〜3名という状態であった。このスタッフ難にも関わらず,学会開催を引き受けたのには,個人的な理由がある。私は学部,大学院ともに中文ではないところに籍を置いていたが,なんとか研究を進め,また就職までこぎつけられたのは,日本中国語学会が存在したからである。発表の機会を与えてくれたのは言うまでもないが,会員の方から励ましとお叱りをうけ,また行く末を案じて手を差し伸べてくださった先生方も少なくない。そこで,いつか恩返しをしたい,と思っていたのである。
スタッフ難の問題は,中国語学以外の院生を借りてくることで解決した。実を言うと,当日会場で働いてくれた学生のうち,半分弱は中国語とは縁のない勉強をしている院生,残りは中国語に何らかの興味はあるが,まだ学部在籍中の学生たちだった。バイト説明会のとき,分厚いマニュアルを手にして,「先生,このスタッフでこの規模の学会をするのは無謀ですよ」と学生に言われたが,なんとか無事終えることができたのは,この学生たちの働きのおかげである。
学会当日の最大のアクシデントは,戴浩一先生が講演直後に倒れられたことである。それも,会員とスタッフの奇跡的な連係プレーで後遺症なく快復された。手術後一週間で無事台湾に帰られたが,戴先生とその付き添いに来ていただいた蔡素娟先生の二人を空港のゲートで見送ったとき,「ようやく学会が終わる」と思ったものである。私にとっては,「嘉義に無事到着しました」という蔡先生のメールがやっと辿り着いた閉会の辞であった。
振り返ってみて,学会を通して学んだことは多い。緊急時の対応という特殊な例を除いても,普段の仕事といろいろな点で異なっていた。特に,人との連絡業務が非常に多いことが,コミュニケーションが苦手な私にとっては,一番のストレスであったが,こういうことはやっているうちに上達するものらしい。そういう点で,また一つ,中国語学会に育ててもらった気がする。
ベトナムでの中国語
昨年ベトナム・ホーチミン市に語学研修に行った際に,同市の華人居住区チョロンを訪ねてみた。チョロン地区はホーチミン市の中心街から5キロメートルほど南西に位置するこの国最大のチャイナタウンである。住民は広東系が半数以上を占め,他に潮州,福建,客家系などから形成されていて,広東語が共通語になっている。私は予備知識からチョロンの華人は受難の民というイメージを何となく抱いていた。この地域はフランスの植民地時代に経済の中心地として繁栄を築きながらも,中越戦争以後は資産制限,華語教育の禁止,その他様々な迫害を受け,多数の住民が難民として国外脱出を図った。ドイモイ政策実施以降は人口も回復し,かつての賑わいを取り戻しつつあると聞いていたが,実際の状況を是非見てみたかった。
ホーチミンからバスで20分,一見町並みは他の地区と変わりないが,表通りから奥まった路地に入ると漢字の看板が目立ち始める。漢方薬局,仏具屋,中国茶などを売る店が並び,漢方の薬材,線香,乾物などの匂いが入り混じり独特の雰囲気を醸し出している。語学の研究者としてやはり気になるのは人の話す言葉だ。周囲から聞こえてくるのはベトナム語ばかりだが,中国語の何方言がどの程度通じるのだろうか。取りあえず入る店々で北京語で話しかけてみると,店員さん達は一見戸惑った顔をしながらも,皆たどたどしい普通話で応対してくれた。聞くと,やはり広東語の方が得意だが,一応学校で北京語を習ったとのこと。大学生の女の子とも話す機会が持てたが,こちらは大変流暢な北京語で応対してくれた。彼女の両親は広東語,潮州語しか話せないが,本人は高校まで普通話を習い続けたので,かなりの水準まで話せるそうだ。ただし正規の授業科目ではなく課外授業ということだったが,残念ながら週に何時間あるかなど細かいことは聞く時間がなかった。しかし,受けた教育の差はあるにしても北京語教育が普及しているということは何となく感じ取ることはできた。
今ベトナムでは中国語学習ブームである。書店ではどこも日本語と並んで中国語の語学教材がぎっしりと並び,語学学校でも盛んに教えられている。この国においても中国語は新たな地位を築き上げているようだ。
中国を遠く離れて
最近19世紀イタリアの中国語教科書『三字経』について調べている。これはナポリにあった中華書院なる機関で使用されていた教科書で,『三字経』本文の漢字にローマ字標音を与えラテン語の語釈を付したものである。中華書院はナポリ出身の来華宣教師マッテーオ・リパによって1734年創立された。中国伝道のためヨーロッパ人には中国語教育を行い,中国人にはキリスト教教育を行うことを目的としていた。編者は湖北出身のカトリック信者で,名を郭棟臣という。
さて今年の夏イタリアを訪れる機会があった。ローマではローマ大学を,ナポリでは中華書院の後身であるナポリ東洋大学を訪れることができた。
約半年の旅程を経て,150年前でもさして変わらないであろうこの石畳と煉瓦の街に降り立ったとき,郭棟臣の心境はどのようなものだったのか…彼本人がイタリアの印象を語った資料はまだ見つけていないが,その兄郭連城がイタリア遊記として『西遊筆略』なる文献を残している。彼はサン・ピエトロ大聖堂を訪れてその偉容に圧倒され「置身名勝地,宛似夢醒初,美矣西洋景,人言信不虚」という極めて直接的な詩を詠んでいる。なお,その道中,彼の弁髪は道行く人の注意を引き「人衆環而観之,見余髪弁頗長,倶呵呵大笑」という状況になったのは19世紀ならではというべきか。
また郭連城はナポリについて以下のように描写する。「納玻離乃意大里亜国之地,山勢勇壮,宮殿高聳,海内望之,若一幅絶妙図画」。ある意味そっけない。むしろ彼の興味を引いたのはポンペイを壊滅させたヴェスヴィオス火山であったようだ。「造物多奇巧,巍然一火山」に始まる,ここには引用しきれないほど長い詩を残している。
抑揚の強いイタリア語が響き渡る街中で,郭連城は中国を表すイタリア語Cinaを「期納」と聞いた。文化も環境も異なる中,若き郭家の兄弟はこの陽光あふれる国で何を思っていたのか。調査や発表の合間をぬって150年前に東方からやってきた若者が歩いたかもしれない同じ道を歩き感慨にひたるくらいの余裕は,許してもらえるだろう。
海外学会参加記
台湾語言学一百周年国際学術研討会
国立台中教育大学(台湾)2007.9.8-9.9
このシンポジウムは,小川尚義が台湾総督府から『日台大辞典』を出して百周年になるのを記念して,2004年に設置された台湾語文学系(洪惟仁主任)が主催した。
洪主任は「百年前,台湾の言語学はアジアで一番」だったとし,台湾に言語学を導入した小川を記念するのは自然なことだと語った。漢語研究の分野でもカールグレンに先駆けて,今の定説に近い再構を行っているという。
オーストロネシア系と漢語系の言語が共存する台湾をフィールドとした小川は,その両方について研究がある。また台湾は,日本語教育の歴史の発祥地ともいえる。
今回のシンポジウムでは,これらの諸言語の研究を回顧し,言語政策,社会言語学,言語教育,言語地理学,辞書編纂の現在を知る手がかりとなる発表が行われた。
李壬癸(台湾原住民諸語),湯廷池(漢語,英語,日本語)をはじめ,台湾を代表する研究者が発表者,司会者として名を連ね,台湾で行われている「母語教育」の教師らが多く参加した。中央研究院のE. Zeitounは,台湾言語学への西洋人の貢献について語り,香港から張雙慶,シンガポールから呉英成が言語政策について問題提起を行った。
日本からは,土田滋(台湾原住民諸語),前田均(日本語教育)が発表者として招かれたほか,中国語学界からも,遠藤光暁,遠藤雅裕をはじめ広い視野を持つ研究者が参加した。台湾在住の日本人研究者,日本留学の台湾人研究者も多く参加した。
開会は,学生スタッフが英,日,中,台,客家,台湾原住民の7言語で宣言し,発表・質疑は主に台湾語(つまりホーロー語,[門<虫]南語),中国語で行われた。英語,日本語によるものもあった。台湾に根ざした言語研究と,台湾の諸言語をプロモートしていこうという台湾の動きが感じられた。董忠司によれば台湾の母語教育は福建にも影響を与えているという。
また,立法委員選挙,総統選挙を前に,民主化と自由な研究環境の関係について触れられた。日本から参加した研究者らは,高速鉄道(台湾新幹線)に乗って台中を後にした。
類型論研究と中国語の語順
アメリカの言語学者ホーキンス(J.A.Hawkins)は,VO型(主要部先行型)言語とOV型(主要部後続型)言語の語順について,言語運用の観点から「文の構造の骨格ができるだけ少ない数の語が与えられた段階で理解できるような並び方が選択される」と説明する。
中国語を例に話を簡単にして述べると,"我穿去年買的衣服。"(私は去年買った服を着る)という文は,他動詞構文であることが確定するまでに動詞から4語を要する。しかし,「動詞+目的語」を基本語順とする世界の多くの言語では,このような場合,"我穿衣服"と先に言っておいて,その後ろに目的語名詞句の修飾成分を付け足す。目的語が動詞と隣接していれば動詞から1語で文構造が決定するから,その方が「処理」(processing)が速やかに行われる。動詞句の主要部が先行していれば名詞句など各フレーズの主要部も先行している方が「作業記憶」(workingmemory)の負担が軽減されるので好ましい,というのである。
中国語がどちらの類型に属するかという問題は残るが,こうして見ると,この言語は情報処理の点において非効率な語順を選択していることになる。極端に言えば,中国語は母語話者の数では世界に冠たる大言語であっても,類型論的に見ると周辺的な言語というになる。
実際,各フレーズの主要部位置が一貫している,いわば語順整合性の高い言語の方が,数においても優勢であることが指摘されている。ホーキンスの調査によれば,「動詞+目的語」の語順を持ち,かつ名詞句の主要部が先行する整合的な言語はサンプリングした80言語中56あり,70%を占める。これに対して,先程の中国語の用例のように,「動詞+目的語」の語順をもちながら名詞句主要部が後ろにくる言語は80言語中7つであり,その占める割合は全体の9%にも満たない。さらに,品詞の質的違いをひとまず脇へ置くと,"在銀行工作。"(銀行で働く)のように,前置詞句(P+N)が動詞句(V+O)に先行する語順をとる言語もほとんど存在しないものらしく,同氏の調査によれば,このような言語の占める割合は実に3.6%である(ちなみに,整合的な語順,すなわち「動詞句(V+O)+前置詞句(P+N)」と「後置詞句(N+P)+動詞句(O+V)」の配列をもつ言語の占める割合は,それぞれ40.5%と48.2%)。
中国語だけ見ていると,このような構造的特質に気がつきにくい。この種の語順傾向は,他のさまざまな言語現象,例えば"被"構文や"把"構文といった諸構文の発達にも関係しているはずである。類型論研究の成果は,世界の諸言語から中国語を眺める視点を提供してくれるよい材料であり,知っておきたい知識の一つであろう。
富者の学問
昨年の4月から東洋史のM先生にモンゴル語の文語(縦文字)を習っている。習うといっても東洋史の資料講読のためのゼミなので,文字や文法をイチから教えてもらうわけではない。ゼミ開講の条件として,4月の最初の時間までにN. Poppeの文法書(Grammar of written Mongolian)を精読して文法のあらましを理解して,なおかつ文字を全部覚えてくるという課題を与えられていた。そう,受講生はわたし1人だけ。師匠は貴重な時間を割く前にまず弟子のヤル気を見たいとおっしゃる。前期の最初の時間までになんとか文字を覚えてテストをパス。2時間目からKruegerの練習用スクリプト"The Hungry Tigress"を読んだが,当然最初から「転写しろ,読め,訳せ」である。どこで文章が切れているか,あるいはテキストの上下左右もわからず,その短いテキストを読むのに前期いっぱいかかった。その時,辞書はまだ巻末のローマ字グロッサリーでこと足りていた。しかし後期からは資料を読むことになっていたので,いよいよマイ辞書が必要になる。
実はM先生に出会うまではモンゴル語をやろうと考えたことすらなかった。だから知らなかったのだけれども,縦文字を読むために現在手に入る辞書としては『蒙漢詞典(増訂本)』(内蒙古大学,1996年)しかないという。日本では8000円もするが,そもそも現代語のための辞書だし,文字が小さくて配列も独特だし,転写もいわゆるPoppe方式とは違うしで,とにかく初学者泣かせ,とにかくものすごく引きにくい。他に文語を読むための辞典としてLessingのMongolian-English Dictionaryという辞書が定番らしいが,今では古本屋でも手にはいるかどうかと先生はおっしゃった。ネットで調べてみるとなんと一件だけヒットした。6万円もする。日本人はモンゴルが好きだし,『元朝秘史』は翻訳がたくさんあって何度も小説や映画になっているので,辞書や文法書はもっと整備されているだろうと思っていたが,工具書の少なさに泣かされようとは。そういえば最初に読んだPoppeの文法書はたまたまAmazonで買えたのだけれど,これも半年近く待った上に値段は8000円もしたんだっけ。
その後めでたくLessingをだいぶ安い値段で手に入れることができた。状態のわからない本に何万円も出すのは気が進まなかったが,先生曰く「辞書なんてどうせ使っているうちにボロボロになるんだから手に入るうちに買っておきなさい。無駄にはならない」。そして購入後の現在……毎回3キロもある辞書持参で授業にのぞむ。授業中,例えば鉛筆でうすくメモを入れようとすると待ったがかかる。「??辞書はどうせボロボロになるからっておっしゃったじゃありませんか?」「買う時はそうでも,二度と手にはいるかわからないような貴重な本に書き込みなんかするんじゃない!」そんな貴重な辞書を,ろくに読めない私が持っていてもいいのでしょうか。
世の中にはどうやら金のかかる語学とそうでないのがあるらしい。英中独仏露といったメジャーな言語であれば入門書と中型辞典をセットにしても1万円以内でおさまるが,今回の縦文字入門のために使ったお金は軽く10万円を超える。これを安いと思うか高いと思うかは個人の価値観だが,何よりも絶対的に贅沢なのがM先生に直接指導していただけること。いや,まだまだ先生に指導していただいたとはとても恥ずかしくて言えないレベルなのだけれども,気持ちと環境はまさに富者の学問なのである。
学会の愉しみ
斯学の著名人を拝見する。僕が学会に足を運ぶ楽しみの一つである。論文や著書で名前と専門に通じていても,拝眉の栄を得ない方は今でも,多い。感銘を受けるような著書や論文を読むと,その著者は僕のなかで「名前だけ知っている有名人」となる。
学会はまさにライブ。丁々発止の議論を聴きながら「へぇー,あんな顔してんだー」「こんな声なんだー」と深い感慨を懐く。滅多にお目にかからない方を観たりすると,「ついに面を押さえたぞー!」と悦に入ることもある。
もちろん発表自体も,楽しい。質疑応答が白熱してやや厳しい応酬になると「クーッ!やっぱこうこなくっちゃねー」などと議論の行方を見守る。発表者がグサリとくる質問が繰り出された時などは,決定的なキラー・パスが通った時のような快感があるし,漠然とした疑問が他の質問者によってクリアになった時などは,「座布団一枚持ってきてー」と言いたくなる。そして新鮮かつ理路整然とした発表は美しく,感動的でさえある。
このような理由で学会には若い人がどんどん足を運んでもらいたいと思っている。だが今回は沖縄開催ということもあり,非常勤の先生や大学院生の方々には経済的な負担が例年より大きくなることが懸念される。しかし,安く来られる方法は,ある。学会日程には変動がないので早めに安いパックをおさえることが肝要。”越早越便宜”である。レンタカー付ホテルもあるし,ゴージャス感は味わえないが「ぎのわんセミナーハウス」 http://w1.nirai.ne.jp/oki-gsh/index.html は大学から徒歩圏内で,グループで来れば合宿のノリで楽しいと思う。中国の影響を受けた建築物や料理,本土と隔絶した気候や沖縄戦の惨禍,青空の下に広がる巨大な米軍基地・・・。ひょっとしたら学会でもない限り足を運ぶ機会も,沖縄の現状を知ることもないかもしれない。かつての僕がそうでした。
これまで僕は学会に有形無形の多大な恩恵を得てきたのだが,運営面に全く携わってこなかった。全国大会開催を機に学会業務の一端を担うことになり,元「名前だけ知っている有名人」が大変な業務を引き受けて学会を力強く支えていたことを知った。自分は学会にフリー・ライドしてきた。そんな反省にも似た思いが強くなった。今回は準備会の一員として,失態をおかさないよう恙なく,そして会員さんに満足して帰ってもらえれば,と思っている。
「ごみ箱」から思うこと
最近,ある人のブログを見て知ったのだが,中国の赤ちゃんはごみ箱から拾われてくるらしい。というのは冗談で,日本で「橋の下から拾われた」に相当する言い習わしが,「ごみ箱から拾われた」だそうだ。これには驚いた。「橋の下」でもひどい扱いだと思うが,「ごみ箱」とは…。乳幼児の虐待ニュースが続く今,それが本当のことのように思えてしまうから恐ろしい。事実かどうか中国人の友人に尋ねたら,「小さい頃よく言われた」と笑顔で答えてくれた。道理でたくましいわけだ。ちなみに台湾の友人は「岩(石頭坑)から生まれた」そうだ。こちらは孫悟空みたいで可愛い。「ごみ箱」は中国大陸だけの言い習わしなのだろうか。それにしてもえらい習慣の違いだ。
「ごみ箱」と言えば,汚いというイメージがまず湧くが,かつて中国の公園や広場で見た陶器製の“果皮箱”を思うと,そんなイメージは湧かない。手足をそろえて行儀よくお座りしている獅子が,首をかしげて口を開いている姿は,なんとも愛らしい。「えっ,この口の中にごみを入れるの」と,はじめて目にしたときは,あまりの可愛さに手を引っ込めたほどだ。この“果皮箱”だったら捨てられても悪くはないかも・・・なんて,馬鹿な想像までしてしまう。上海に留学していた頃は,茶色の獅子をよく見たが,“果皮箱”収集家のHPを覗くと,茶系色以外にも緑色があり,顔の表情から口の開け具合まで微妙な差異がある。作っている人が違うのだから,違いが出てきて当然なのだが,眺めているだけで楽しくなる。また獅子以外にも,蛙,兎,パンダ,鯉など,実に様々な動物たちがいて,それぞれが個性的で愛嬌がある。彼らは街の自然とうまく調和していて,見る者も楽しませてくれた。まさに芸術作品だった。
しかし近年,中国では街のごみ箱が変わり始めている。芸術性より機能性を重視したステンレス製やプラスチック製の味気ないごみ箱が,彼らに取って代わってきた。経済の急発展とともに,増え続けるごみ。口の中に,ぎゅうぎゅうにごみを押し詰められ,窒息状態で苦しみもがく彼らの姿が目に浮かぶ。今や豊かな生活を手に入れた市民らに見放され,お払い箱にされる運命にあるのか。街の小さな文化遺産が破壊されるようで,いたたまれない。
大量に物を生産し消費する結果,多くの廃棄物を生み出す社会。ごみ問題が深刻なのは多くの人が感じていることで,今の暮らしが次世代も続くのかという不安は日々募る。街の可愛い“果皮箱”は,人々のどういう思いから作られたものだろうか。その誕生の原点を探ると,物を大切にしてきた先人の知恵とユーモアが感じ取れる。今,私たちはあまりにも物を粗末にしているのではないだろうか。物だけでない,人の命までもだ。赤ん坊をごみ箱から拾ってくるなんて,いつまでも冗談であってほしい。
論争のはなし
私は論争などしたことがない。誰かに話題にしてもらえるほどの学説を持ち合わせていないし,他説を批判したことはあっても残念ながら相手にもされていない。しかし中国語学史上の重要な論争をあとづけることはよく行う。それが当該分野の本質的な問題を浮かび上がらせることにもつながる,と思っているからだ。
上古音に少しでも関心のある方なら,2001年12月に梅祖麟氏が香港の学会で行った講演(《有中国特色的漢語歴史音韻学》JCL Vol.30No.2)に端を発した一連の論争については,よくご存知であろう。敢えて概括的に言えば,梅氏が,王念孫らの清朝考証学者(段玉裁を除く?)及び近代の"章黄学派",そして王力氏に批判を加える一方で,潘悟雲氏らの所謂"新派"の研究を高く評価したのに対して,郭錫良氏をはじめとする複数の論者が,批判された王力氏らを擁護しつつ,かつ梅氏や"新派"の研究方法・態度における問題点を指摘する形で論争が惹起され(郭錫良《歴史音韻学研究中的幾個問題—駁梅祖麟在香港語言学会年会上的講和—》古漢語研究2002-3など),両陣営に属する複数の論者(あるいは麦耘氏などいずれからも距離をおく論者)によって論争が展開された,ということになろう。主な論点は,王力氏の上古音研究の評価の他,"一声之転"による同源語研究,いわゆる"複声母"の再構成,漢蔵語比較研究の上古音研究への援用の問題,など多岐にわたる。各陣営の論者間にも,もちろん見解の不一致はみられ,論争の内容を単純化する愚はさけたいが,論争が多分に両陣営の学風の違いを反映し,感情的な対立をも含みつつ展開されたことは,ここからいわば飛び火する形で(これは私の解釈であるが),梅氏の語法史研究に対する批判が行われたこと(張延成《梅祖麟教授語法史論文点評》古漢語研究2004-1など)などからも窺われよう。
さて,上古音を論ずる能力などまるでない私が,敢えてこの問題に言及したのは,この論争がネット上で通じて盛んに議論されたことに興味をひかれたためである。例えば郭錫良氏が最初に梅祖麟氏の講演の内容を見たのは"北大中文論壇(http://www.pkucn.com)"上であるといい,郭氏が潘悟雲氏の研究を批判した文章(《簡評潘悟云的《諧声分析与異読》》)を公開したのもはじめはネット上であった。無論,掲示板上での議論であるが故に,匿名の,無責任・不愉快な発言も目立つが,著名な学者が実名で重要な文章を載せることも少なくない(例えば鄭張尚芳氏が"東方語言学網(http://www.eastling.org)"に2003年10月に公開した《郭錫良《漢字古音手册》勘誤》など)。総じて言えば,感情的な対立を含みながらも,見応えのある論争が展開された,という印象を持った。ひるがえってみると,わが国においては,ネット上で中国語学に関する白熱した論争がおこることはあまりありそうにない(私が知らないだけかもしれないが)。それは単純に研究者(および院生)人口が少ないためである。しかし,もしかすると,中国には,わが国にはない何かしらの文化的背景—かつて戴震,段玉裁らが意見をかわしたような背景—があることも関係しているような気がするのは,私の妄想だろうか。
発音の季節
GWを目前にした今の時期,中国語Ⅰのほぼ大部分のクラスでは「発音練習」の真っ最中であろう。現在,日本で出版されている中国語初級テキストのうち,大多数が巻頭に「発音編」を設けて,発音に関する基礎知識を一挙に習得するように構成されている。その種の教材を使うクラスでは,4月の桜散る頃から大型連休を跨ぐこの時期にかけて,連日ローマ字を中心とした発音練習と聴き取りとに授業時間の大半が費やされていることだろう。
私は,そのような構成で編まれたテキストで授業をする度に,いつも心に僅かな疑念が起こる。ほぼ1ヶ月に渡る「発音練習」はどれぐらい必要であるのか,また,どれくらい有効であるのだろうか。無論,私は「発音編」における学習(内容)自体を否定するつもりは毛頭無いし,そこに記載されている内容は,中国語学習者に対してすべて必要不可欠なものであると認識はしている。私の疑念は,あっさり言えば,その内容を学習当初にすべて一挙に詰め込む必要があるのかという点にある。
生まれて始めて中国語に接する受講生は個々人のモチベイションの差こそあれ,大なり小なり,新たな言語の学習に対して期待と好奇心を持っているはずである(と信じたい)。その気持ちをどこまで持続させられるか,というのも語学を教える上で大切なことであろう。「意味」と「実用」の世界から程遠く,機械的に記号の読み方と書き方だけを連日訓練する授業が開始早々続くなら,それは中国語という未知の言語に対して受講生が抱いていた仄かな興奮を削いでいくことにはなりはしないか・・・・・・。私の漠たる不安はそこにある。かくて私自身は,この「発音練習」期間においても,むしろ故意に授業を「脱線」させて,毎回たとえ少しでも中国語の機微に触れて帰ってもらう時間を設けるのが常である(脱線した時の受講生の反応が,また次の年の「脱線」に繋がっているのも事実である)。
「中国語学習では一にも二にも発音の習得が肝要」と昔から言われるが,発音が大事なのは中国語に限った話ではない。4月に学習を始めた瞬間に"e"や"zhi"の発音が上手くできなくて,それ以来中国語の勉強が嫌になったという受講生が出てくれば,悲しいことである。未経験の音を発音することは,本来,楽しいことであるはずで,それを如何に教室で実践させ得るかということに,毎年この時期になると思いを致す。
関東支部拡大例会を終えて
第1回関東支部拡大例会が開かれた。初めての試みにも拘わらず,120名をこえる参加者があった。開催校をお引き受けくださった明治大学の守屋宏則先生をはじめ,ご協力くださった皆さまに心よりお礼申し上げたい。
全国大会の他にもう一つ発表の機会があればよいのに,というご意見を初めて聞いたのは,今から2年前,筑波大学で全国大会を担当した時だった。あの年,二日目の研究発表には予想を上回る応募があり,開催校としては非常に有り難かった。できるだけ多くの方に機会を提供しようと,6つの分科会を用意したのだが,それでも一部の方には発表をお断りせざるを得なかった。ところが当日,一部の会員から分科会の数が多すぎるという苦情がでた。聞きたい発表が重なっていて困るというのだ。十分注意してプログラムを組んだつもりだったが,学問の関心は十人十色,どうしても重複は避けられない。しかし,だからといって分科会の数を減らせば,せっかく応募してくれた会員から発表の機会を奪ってしまうことになる。近年の開催校はみな同じようなジレンマを感じているのではないだろうか。
会員の約半数を抱える関東支部で比較的大きな例会を開催すれば,全国大会の混雑緩和に少しは貢献できるのではないか。昨年の春,支部代表の佐藤富士雄先生からそのようなお考えを伺ったとき,全国大会の経験から迷うことなく賛成した。それなら春ごろやってみましょうと,とんとん拍子に話は進んだが,会の名前をつける段になって困ってしまった。「関東支部大会」にすると,どことなく独立謀反のにおいが漂うし,「関東支部例会」では華にかける。悩んでいたところ,木村英樹会長が「拡大例会」という名前をつけてくださった。響きも良いし,何となく賑々しい。即決定と相成った。何故「拡大」なのか,というご質問をたくさんの方から頂戴したが,正直なところ私にも本当の意味はわからない。どうしても知りたい方は,木村会長に直接お尋ねいただきたいと思う。
せっかくの新しい試みであるから,全国大会のミニ版ではつまらない。何か面白いアイディアはないかと考えているとき,大阪外大の山崎直樹氏からワークショップの企画をいただいた。『中国語辞書—これまでとこれから—』と題したこの企画は,とてもよく練られていた。複数の発表者がそれぞれ勝手に意見を述べて終わるシンポジウムが多い中で,今回は発表者とコメンテーターのやり取りがきちんと絡み合っていた。もう一つの試みは,質疑応答の時間を20分にしたことである。時間を持て余してしまうのではないかと心配する司会の方もいたが,決してそんなことは無かったようだ。十分な意見交換を行うことは,発表者と参加者の双方に大きなメリットがあることを実感した。
ともあれ関東支部の初めての試みは,どうにか無事に終えることができた。会のあと,御茶ノ水の沖縄料理の店で打ち上げをやった。懇親会もいいが,やっぱり打ち上げの方が盛り上がる。秋にまた,沖縄で再会することを期してお開きとなった。
“一点”の“一”の声調
自分のブログで書いたことがあるのだが,時刻の1時“一点”の“一”が第何声で発音されているのかについての扱いがよくわからない。
以前テキストを作った時,編集委員の中国人は第1声だと言ったのでピンインも第1声で印刷したら,後日音声CDの録音の際に吹き込みを担当した中国人は,この音は第4声だと強く主張して,結局第4声で吹き込んでもらったことがある。
他のテキストではどうなのかと気になって,いくつかの“一点”の例をあげたテキストを見てみると,第1声派と第4声派のいずれもある。例えば「口語の時刻の言い方は時刻を告げる鐘のなる音の回数を数える言い方になるので“二”ではなくて,“両”を用いる。ただし,“一点鐘”の数詞“一”はあたかも時間の順序を表すかのごとく第1声に発音されることが多い。」(『着実にまなぶ中国語20講―入門速成コース―』讃井唯允著,朝日出版社,2004年)のように詳しい解説つきで第1声だと提示するものもある一方で,例えば『ワンポイント初級中国語』(輿水優著,郁文堂,1997年)のようにピンインがはっきりと第4声になっているものも少なくない。
規範的には本来第4声であるべきだ。(そのように言及している研究論文もある。)しかし「規範からいってあるべき姿」と「現実の姿」は必ずしも一致しない。何人かの中国人に聞いても第1声だとする人と第4声だとする人に(ほぼ半々に)割れた。そのような場合,学習者としてはどう覚えればよいかと迷い,辞書を引いてみることになる。“一点”はフレーズのレベルなのでわずかな例(『中日辞典第2版』小学館,2003年。の“一”の項目の「注意3」)を除き,辞書には記述はないかもしれないが,このように中国人の間でも判断にゆれのある語を辞書でどのように記述すべきかは頭の痛いところである。発音だけでなく,ある語の用例を挙げる際も,その語が現実社会で実際にどのように用いられているかという視点は常に持っておかなければならないだろう。
3月17日に関東支部拡大例会で辞書のワークショップが開かれるが,その場でも学習者にとっての辞書のありかたについて,様々な意見交換ができればよいと思う。
"我叫阿拉ka(上下)瓦,己悠希代"という時代はくるか
中国語教師は授業中,学生の名前をどう呼んでいるのだろうか。ふつうに日本式にアラカワ?それとも中国音でホァンチュアン?たいていの人はなんの疑いももたず,中国音で呼んできたのではないだろうか。わたしは中国語を教えて40年近くになるが,これまでこの呼び方に真っ向から抗議されたことは一度しかない。それから今日まで,たいていの学生はこの呼び方に不満を持っていないのだと思っていた。ところが,98年から「言語文化論」という講義を担当するようになり,「固有名について」というテーマでそのことに触れると,大半の学生は二つ目の名前ができてうれしいとか,最初は少し抵抗があったが今では慣れて抵抗もなくなったと言ってくれるのだが,この中国式の呼び方に違和感をもっている学生も少なからずいるということが分かってきた。
もちろん,わたしたちも毛沢東(モウタクトウ)と日本式に呼んでいるからおあいこだと言って説得するのだが,韓国との間では,30年ほど前に朝鮮人牧師の崔昌華(チョオエ・チャンホア)さんが「わたしの名前をサイショウカではなくチョオエ・チャンホアと呼んでほしい」とNHKを訴えた事件(一円裁判)があってからか,金大中(キン・ダイチュウ)氏はいつのまにかキム・デジュンと呼ばれるようになった。かくて今や日本と韓国との間では,国名をニホンではなくイルボン,ハングッではなくカンコクと固有の漢字音で読みあう以外は,人名,地名ともにほぼ相互現地音主義が徹底している。
これには韓国が漢字を制限していることや,民族感情の問題がからんでいるだろう。しかし,その韓国も少し前までは朝鮮漢字音で,北京をプッキョン,毛沢東をモーテックトンと呼んでいた。それが今やペイチン,マオツァードンと中国式に読むようになってきた。変化しないのは,ただただ中国だけだと言わなければならないが,その中国でさえ,韓国の抗議を受け,最近ではソウルを「漢城」から「首爾」と呼ぶようになってきている。
実は,中国でもかつては日本の地名や人名を日本式に呼んでいた時代があった。たとえば,清末,外国人が編んだ新聞『六合叢談』には「西莫大」が出てくるし,中国人外交官の日記には「哈基蘇克」「福思雅瑪」「由勾哈瑪」「克貝」「維諾」のような表記がみえる。中国人はいつから日本人や日本の地名を中国式に呼ぶようになったのだろう。日本と中国の間に,相互現地音主義が成立する日はくるのだろうか。
(参考:荒川「日本人の名前をなぜ中国音で読むか」『しにか』92/5 大修館書店)
※それぞれ「下田」「蜂須賀」「冨士山」「横浜」「神戸」「上野」
全国大会を終えて
10月28,29日の二日間,愛知県立大学で開催された第56回全国大会が終わりました。担当校で準備に携わった者としては,大過なく終了したことを何よりも喜んでいます。残務処理が一段落したあたりから1ヶ月ほどは何もする気になれず,バーンアウトのような状態でしたが,最近になってようやく通常のペースに戻りつつあります。
最初に行った会場確保のための交渉から数えると,ほぼ1年の時間を開催準備に費やしたことになります。IACL-11の時まだ着任していなかった私にとってはすべてが初体験で,腹の中に大きな鉛の塊を呑み込んだまま過ごすような気の重い日々でしたが,様々な方々から助けをいただいて何とか乗り切ったという感じです。いま,この1年間自分を突き動かしてきた力は何だったのだろうということを改めて考えてみると,昨年の夏休みに同僚が発した一言に行き当たります。
開催を引き受けることについては様々な意見がありました。私は当初から消極的賛成と言うのか,語学専攻の教員が3名もいる大学はそうないし,どうせ一生に一度は回ってくるだろうから仕方ない,というあきらめにも似た心境でしたが,その同僚は明確に反対の意思を表明しました。研究のための時間を浪費したくない,というのが理由です。そして,竹越さんはまだ30代だからいい,でも自分に残された時間はあとわずかなのだ,という一言を付け加えました。
これは研究至上主義であり,エゴイズム以外の何物でもありません。勝手なことを,と眉を顰める人もいるでしょう。ですが,私はこの一言に腹を立てる気にはなりませんでした。むしろ,平素から学内の雑務を淡々とこなし,毎回の授業の準備を怠らず,何よりも心から学問を尊敬し研究を楽しんでいるこの同僚が,残された時間を数える年齢にさしかかっていることに軽いショックを覚えました。そしてその時,いつまでもこの人に頼ってばかりはいられない,今回は可能な限り自分が頭と体を動かそうと決意しました。
もちろん,すべての事前準備を一人でできるはずもなく,私は1年の間ことあるごとにその同僚の研究室を訪れてはわからない点を尋ね,意見を求め,悩みを聞いてもらいました。彼はそのたびに的確なアドバイスをくれ,開催期間中はただ黙々と手を動かしていました。
すべての後片付けを終えた二日目の夜,私たちは近くの喫茶店でささやかな打ち上げをしました。その同僚は,コーヒーをおいしそうに飲みながら,最初はやりたくなかったが,終わってみるとやはりやってよかったと思う,と言いました。その微笑みを見た時に,私は1年をかけたこのプロジェクトがようやく終わったことを感じました。1年前の,決して前向きとはいえないあの一言によって,私は今回少しだけ成長させてもらったのかも知れません。
初めてのポスター発表
今年の5月,IACL-14 & IsCLL-10(台北:中央研究院)でポスター発表というものを経験した。(横田文彦氏との共同研究)ポスター発表に採用されたという知らせを受けたときは正直とまどった。どういうものかまったくわからなかったからだ。身近に経験者もいなかった。そこで『ポスター発表はチャンスの宝庫!』(今泉美佳,羊土社)という本でポスター発表について研究することからはじめた。そしてとにかく(よくわからないので)試しに全て本に書いてある通りにやってみることにした。
まず本にしたがって8週間前に発表準備を始めた。この段階ですることはこれまでに集めた資料の整理,ポスターを貼るスペースの確認(規定のパネルにポスターが収まらないと読みにくいばかりか周囲の人に迷惑がかかるということなのでメジャーを手に細心の注意を払った)とレイアウトの決定である。そして6週間前からポスターの作成,2週間前には校正(実際にポスターを貼って複数で確認する。ここでポスターを貼るのは思ったより時間がかかること,またポスターを貼る道具として——これは本にも書いていなかったが——両面テープが便利なことがわかった),発表の練習(内容を原稿にまとめたうえで原稿を見ないで説明できるようにする),配布資料や関連する自著の抜き刷りの準備,「当日もちものリスト」の作成(文房具など。特に指し棒は役に立った)にかかった。当初は「8週間前からなんて早すぎるのでは」と思ったが,授業や学校の仕事と並行してやらなくてはならないこと,不測の事態の発生の可能性などを考えると決して早すぎることはなかった。
さて,同書によると当日の注意点は,時間に余裕をもって会場へ向かう(当然といえば当然である。しかし実際は余裕がありすぎるくらい早く行ってしかも二人がかりで貼り始めたにもかかわらず思ったより時間がかかり,最後は共同研究者ではない加納巧氏にまで手伝ってもらった),発表中は相手の目を見て誠意をもって説明する,質疑応答では質問の主旨を正しく理解してから答える(ポスター発表の利点のひとつはさまざまな研究者とじっくりやりとりできることだという。実際,普段口頭発表の質疑応答では手を上げないおとなしい方とかなかなか近寄れないえらい先生のコメントを直接聞けたのはうれしかった),終わったら責任をもってポスターを撤去する(これも当然といえば当然だが,忘れる人もいるらしい)などであった。
こうして初めてのポスター発表はこの本のおかげでなんとか終えることができたのだが——。今考えてみると同書に書かれていた内容は通常の口頭発表でも同じ,基本中の基本である。ポスターはレジュメや予稿やスライド,ポスターを貼るスペースは発表時間にでも相当するだろうか。ポスター発表でも口頭発表でも入念に準備をして緊張感をもって望むべきなのだ。ただ,相対的にポスター発表のほうが準備に時間をかけたかどうかがはっきり出るような気がする。
さて,今年の全国大会は盛会のうちに終わった。が,6分科会に分かれていたため聞きたい発表を聞けなかったとか,聞いてほしい人に来てもらえなかったとかという声もあった。もしかしたら,近い将来この学会でもポスター発表が普通のことになるかもしれない。
先生の「OK!」—インフォマントは気を遣うという話—
方言調査というのは,生身の人間を直接の調査対象としている点で独特の難しさがある。調査は少なくとも数週間は続く。緊張感がありすぎても自然なデータは取れないし,緊張感がなさすぎると作業が進まなくなる。このさじ加減は非常に難しい。
共同調査などでベテランの先生方の調査を見せていただくと,巧みに距離間を測りながら,緩急自在に調査を進めている。まるでメキシコのテクニシャン系選手の華麗なアウトボクシングのようだ。
私には,そのような技術や経験はないので,とりあえず「教師と学生」のような関係を築くように心がけている。その旨をはじめに伝えておくと,照れながらも次第に先生を「演じて」くれるようになる。
そして,以下は前回の調査の話である。
ある日,私はインフォマントの実家に遊びに行った。普段は宿舎に来てもらって調査をしているので,いわば実地訓練となる。子供達に誘われて裏山を散策に行くと,ある子がミカンの木を指さしながら私に尋ねてきた。
「おじさん,あれ何て言うか知ってる?」
ミカンは前日に調べたばかりの単語だ。
「(自信満々に)グゥエッでしょ!」
一斉に首を傾げる子供達・・・。そこで,一人の女の子が言った。
「グゥエッじゃないよ。グゥィエッだよ。」
「???」(この段階で,私には同じ音にしか聞こえていない)
このグゥィエッというのは「橘」という字が当てられる。そうだった。私は字音調査の時にその字を何度も何度も読まされたことを思い出した。そして,語彙調査で同じ発音が出てきた時に先生は私の発音に一瞬表情を曇らせたけれども,すぐにOKをくれた。この時に気づくべきだった。実は,私の発音は全くOKではなかったのだ。その夜,子供達について発音練習し,翌日,先生とミカンを食べながら,試しに「このグゥィエッおいしいですね」と言ってみた。「それ,その音!」と手を叩くインフォマント。こちらとしては冷や汗モノだ。もう少しで,おかしな音を大切に記録して日本に帰るところだった。
その話を後日,現地でお世話になっている主任さんに話すと,いくら先生と学生だといっても,外国からのお客様でもあるから,何度も修正させるのは気が引けたのではないか?とのこと。それ以来,インフォマントの「OK!」をすぐには信じないようにしている。
それにしても,子供はどこに行っても子供だ。容赦ない。それが恐ろしいし,ありがたい。
見るものと見られるもの
文化人類学の分野では,観察者と被観察者の問題について,いろいろな議論がなされてきている。
今夏,調査で中国雲南省シーサンパンナに赴いたのだが,この問題をふと思い出すことになった。
シーサンパンナは,ダイ族というタイ系の民族が集住している地域だ。よって,ダイ族文化は,この地の観光資源になっている。工芸品・料理・芸能・宗教などなど,どこに行ってもほぼダイ族一色であり,また,街路表示には,ダイ文が併記されているので,この土地が,漢族集住地域とは異なった文化圏に属していることを実感させてくれる。
さて,シーサンパンナには「[人泰]族園」なるテーマパークがある。ここは,ダイ族の5つの自然村を囲って,丸ごとテーマパークにしている。そんなテーマパークへ,我々は行ってきた。
感想から述べよう。私は,その土地らしい特色を持っている町や集落を歩くのが好きだ。だから,ダイ族の村を歩くのも当然好きなはずのだが,ここは,なぜか,単純に楽しめない,見ていて,ちょっと悲しくなるような場所であった。
テーマパークであるからには,当然,入場料が必要になる。つまり,我々は,お金を払って,ダイ族の生活をのぞくわけなのだ。いや,そんな失敬なことはしない!と思っても,しかし,そういうシステムなのである。逆のケースを考えてみよう。たとえば,ワタシが住んでる集合住宅が,テーマパーク「日本人村」で,外国人観光客がひっきりなしに来ては,家の中をのぞいたり,写真を撮ったり…どうなんだろうか?たぶん,いくばくかのお金が入ってくるはずだが,おそらく,落ち着かなくて,あんまり楽しくはないだろう。
確かに,村にはお金が落とされて,実入りもよくなるはずだ。全村テーマパーク化は,村おこしの一環ともいえなくもない。とはいえ,そこでは,自分たちの生活の切り売りが行われているわけだし,伝統文化の破壊だって行われているのだろう。
すべては移り変わる。これは,この世の理であるから,ダイ族の村の民族伝統が金を得るためのアトラクションになり,また一方で民族語が失われても,それは,自然の摂理だともいえよう。そして,見るものと見られるものの立場の違いは,厳然と存在している。
中国の音を採る
中国へいけば,以前なら,のちに教材になるかと思って,街のめまぐるしい変化をデジカメでひたすらとったものだが,最近は紙媒体の情報(チラシ類)はもちろん,さまざまなものを採取する癖がついた。その一つに街の音がある。街には中国の風土を感じさせる音があふれており,街をそぞろ歩くだけで,教室では聞くことのできない音が耳に入ってくる。これらは日常生活の音なので,歩くだけで容易に採取可能である。それもあって,私は街を歩くときには録音機能付の小さなMP3プレイヤーを常に肌身離さず持っている。
まずは,売り声。最近は売り声も合理的になったというか録音を流しているだけのところも多い。とはいえ,連呼する“好消息,好消息!最後一天大shuai売!所有皮鞋一律30元!告訴大家一個好消息……”にはニヤリとしてしまう。一つ目の“好消息”よりも二つ目の“好消息”の方が声のトーンが高い。これが中国語の音の心地よさを形づくっている。机上の学習では感じられない醍醐味だ。また,録音でなく,生の売り声を聞けばこれは「買い」である。通り過ぎたあと,やっぱりと思い直して走り戻り,こっそりMP3プレイヤーの録音ボタンを押す。特に夕暮れ時に聞こえる『北京晩報』を売る声“晩〜〜〜報!”は絶品だ。
街の売り声にもう少し耳をむけてみよう。カジュアルウェアの店先で,若い店員が手をたたいて,“看一看,[目焦]一[目焦]!”と客寄せをしている。同じ「見る」意味の“看”と“[目焦]”を使って,中国語の嫌いな重複を避けているのだ。“看”は早い時期に教えても“[目焦]”は教えない。生きた中国語との差を実感する瞬間である。また,有名なお茶屋では時間に合わせて“歓迎光臨,上午好/下午好/晩上好!”と使い分けていることにも気づく。
地下鉄の車内放送やバスの切符売りのおばさんの声もすかさずとる。地下鉄の車内放送では,地下鉄の車両を“列車”といい,「次の駅」は“運行前方”という表現をしている。おまけに到着は,“王府井到了”とくる。到着点である場所名詞が前にくるのだとわかる。バスの切符売りの声からは“扶好”や“拿好”という生きた結果補語“好”の使い方を知ることができる。
こうしてしばらく街を歩いてホテルに戻ると,今度はそれをさらにMP3プレイヤーをFMラジオモードにして,ラジオを録音してしまう。これで帰国しても,採取したデータでまた楽しめる。私の中国の音を採取する旅はこれからも続く。
多言語意識
わたしの勤務する大学で,大人数を相手に講義をしているとき,受講者にこんな作業をさせたことがある。「自分が日常的に使っている言語で,親族名称を知る限り挙げてください。いちばんたくさん挙げた人には,賞品を......」
講義という授業形態でも,教師が一方的にしゃべるのではなく,ときにはこのような作業をさせるのが,授業を活性化させるコツである。
それはさておき,回答用紙を眺めるのは楽しかった。
「イトコチガイ」などという語彙にひさしぶりにお目にかかった。また,感動したのは「やしゃばあちゃん」であった。なるほど「玄孫」が「やしゃご」なら,高祖母はこうなるのか。曾祖母が健在で「ひいばあちゃん」を日常的に使用している人は珍しくなかろうが,生きている高祖母を「やしゃばあちゃん」と呼べる大学生は貴重だろう。御長寿をお喜び申し上げたい。
もっとも,わたしが「やしゃばあちゃん」を最初に目にしたとき,とっさに浮かんだのは「夜叉ばあちゃん」という字面で,「ずいぶん恐ろしげなばーさんだな」と思ったが。
さて,最も多く親族名称を挙げて賞品を獲得したのは,やしゃばあちゃんやひいばあちゃんを擁する日本人学生でもなく,豊富な親族名称を誇る華語圏からの留学生でもなく,家庭内で日常的に日本語と朝鮮語を併用している大阪在住の学生であった。つまり,二言語による3-4世代分の名称が満載されていたというわけである。
この課題を出したとき,わたしはこの結果を予想していなかった。日本の社会は,近年,急速に多言語化していると言われている。そのとおりだろう。しかし,社会の構成員の大多数の意識は,相変わらず,単一言語的であり,言語に関して多元的な思考をする習慣はできていないと,自らを省みて思わされた。
他の学生からは,「ずるーい!」「そんなの,ありか?」という声があがったが,「あり」なのだ,と彼らが思えるようになるのはいつだろうか。
多言語世界
昨年,1年間,台湾の清華大学に滞在しておりました。
台湾は,というよりも「も」というべきでしょうが,多言語社会です。ホーロー語(台湾語)・客家語・華語という漢語系の言語のほか,オーストロネシア語に属する先住民の言語があります。また,ごく部分的にですが,日本語も残存しています。
ですから,私が会った台湾人にも,ポリグロットの方がかなりいらっしゃいました。たとえば,ある客家人の方は,母語である客家語海陸方言以外に,客家語四県方言・ホーロー語(台湾語)・華語の4言語を話せました。また,清華大学でお世話になった張光宇先生は,母語である客家語四県方言のほか,ホーロー語・華語・英語に通じていらっしゃいましたし,授業では,ところどころ,日本語も交えていました。その日本語は,先生が意識的に習い覚えたというよりは,台湾に残された日本語というべきものでしょう。
台湾では,華語が普及しているために,複数の言語がわからなくても生活は可能です。しかし,華語以外の言語の理解能力の有無によって,見えてくるものが異なるのではなかろうか,と感じました。